※晴信がモブ女子と付き合うとか付き合わないとかそういう描写があります
「ただいま~今日の晩御飯はなんですか?」
勝手知ったる口ぶりで玄関を開ける女はこの家の住人ではなく、俺の家族でもなければ恋人でもない。友人? それも否定したい。事実だけを述べればあいつは俺の同僚でしかない。たとえ同期入社という共通点があったとしても、だからといって親しいわけではない。俺はそう認識している。
「あら、生姜焼きですか、美味しそう」
なのにこいつは、景虎は無遠慮な足取りでずかずかと入り込み、台所に立つ俺の背後に回り込んでさも当然のような顔で夕食の品評を始める。
「おまえの分はない」
振り向かずに突っぱねてはみるが、こいつは意にも介さないし、俺だってこんな一言でこいつが引き下がるとは思っていない。なにより、
「え~? 今日もいいお酒持ってきたんですけど? なんと限定五百本醸造の……」
これだ。どこから入手してくるのか、毎回珍しい酒を引っ提げてくる。しかもそれがまた旨いのだから余計に質が悪い。結局今日も俺は酒の誘惑に負け、「とっとと手を洗ってこい」と言うことしかできないのだった。
きっかけは入社してすぐの頃の飲み会だった。ペース配分を間違えて酔いつぶれた俺を介抱し、家まで送ったのが景虎だったらしい。酔いつぶれていたので記憶がほとんどないが、俺を送り届けて帰宅しようとした景虎に合鍵を渡したのはほかならぬ俺自身だった――と、景虎は主張する。
なんでそんなことをしたのかさっぱりわからないが、いくら傍若無人のこの女とて他人の家を漁って合鍵を盗むほど非常識ではない。それは同じ職場で仕事ぶりを見ている俺がよく知っている。だとしたらやはり、俺が合鍵を渡したのだろう。カードキーの複製なんてそう簡単にはできるものではないし。しかし、鍵を盗むほど非常識ではないが、何度言っても鍵を返さず何度も人の家に上がり込む程度には常識が欠けている。いい加減どうにかしなければ今に大事故が起こる……そう思いつつも、何をどう言えば景虎が納得するのかわからないまま、置いていかれる酒瓶の数だけが増えていった。
そして案の定、大事故は起こってしまう。
「ただいま~今日のワインはすごいですよ~」
玄関からの声にさっと血の気が引く。馬鹿、入ってくるな――と叫びたい俺。その目の前で表情を凍り付かせる彼女。女は察しがいいと言うのは事実らしい。親し気に「ただいま」と言う女など、「誰?」と尋ねるまでもないと判断したのだろう。そして自分よりも、どう見ても相手とのほうが親しい……すなわちむしろ本命は向こうで、自分が俺の浮気相手だった――そんな分析と判断が怜悧な表情で瞬時に行われたのだろう。何も知らない景虎は鼻歌交じりにリビングのドアを開ける。
「晴信、今日は私が――……」
同じ女なのに、こいつはどうして察しが悪いのだろう。玄関に女ものの靴があると気づいてほしかった。気づいて、そこで引き返してほしかった。
「え? どなたです?」
さすがにやや強張った表情でそんなことを言う景虎の頬を張ろうと白い手が降りあげられる。
「おっと」
が、景虎は驚くべき反射速度で身を反らせてそれを避け、結果増幅した彼女の怒りはまるごと俺の顔にむけられた。
「最ッ低」
その一言を残して彼女は去り、そして俺との関係もおそらく――いや、間違いなく、終わった。終わるも何も、つい先日声をかけられたばかりで、これから付き合うか付き合わないかという段階でまだ何も始まっていない。それでも、俺は今後もこうして景虎に、何もかもを邪魔されてしまうのだろう……という確かな絶望はある。頬の痛みはそれなりのものだが、正直それどころではなかった。
「まともに受けるから……」
半分呆れた景虎は何もわかっていない。俺まで避けたら彼女の感情のやり場がなくなるし、何よりプライドが傷つくに決まっている。
「おまえはいつもいつも……そうやって人の感情を無視してばかりだ」
俺の都合などお構いなしに押しかけてかき回してぶち壊して、迷惑なんてものではない。もう終わりだ。おまえとは金輪際関わりたくない。鍵を返せ。返さないなら俺が出ていく。一息に言い捨てると、景虎は俺を睨んだ。
「……人の感情を無視して私をいいようにしたのは貴方のほうでしょう」
感情を押し殺した声だった。涙をこらえているようにも聞こえて、思わずたじろいでしまう。
「……どういう意味だ」
景虎が何を言っているのかわからない。
「あの夜私の肩を借りて帰宅した貴方は、帰ろうとした私を引き止めて……引き止めただけならまだしも、そのまま抱き着いて…………キスまでして」
怒りか、悲しみか。景虎は自分の中からこぼれ出そうになるものを、懸命に押さえているらしかった。それがとうとう決壊しそうな瞬間、その顔からすべての感情が消えた……ように見えた。
「でも貴方にとってはあんなことは、なんの意味も持たないことだったんですね。……勘違いして、舞い上がって」
馬鹿みたい。そう零す声が震えていた。
景虎が嘘を言っているようには見えなかった。そんな女じゃないことは、悔しいがこれまでのかかわりでよくわかっている。
だから、何か言わなければならない。そう考えているのは間違いないのに、何も思いつかない。知らなかった、覚えていないと、言ったところで何になるだろう。黙り込んだままの俺に失望したのか、それとも端から何の期待もしていなかったのか、景虎は俺にカードキーとワインを押し付けて、無言でこの部屋を出ていった。
硬い踵がコンクリートの廊下を叩く音が、遠ざかっていく。
あいつは、俺と付き合っていると思っていたのだろうか。
自分が押しかける正当な理由があると思って、邪険にされても毎回笑っていたのだろうか。
ワインのボトルには四桁の数字。俺が、俺たちが生まれた年だった。
『馬鹿みたい』
どんな顔をしてこのワインを選んだのだろう。どんな思いで、俺のもとを訪れていたのだろう。
馬鹿は俺だ。
気が付いたときには、駆け出していた。さんざん迷惑かけられたと思っていたのに、これであいつが俺のもとから離れていくならそれでいいはずなのに、あんな顔のまま夜の街を放浪するあいつの姿を想像すると、どうしても放っておけなかった。
ああ、何を言ったらいいだろうか。
その背中に追いつくまでに、俺は正解にたどり着きたい。