一.
浅い眠りから目が覚めたのは、わずかな息苦しさのせいだった。
裸の胸の上に、太い腕が乗っている。瞬間浮かんだ「どうして」という疑問は、二人並んで朝を迎えたこの状況に対するものではなく、この男がまるで子供のように私を閉じ込めている事実に対するものだった。
男の顔を見る。眠っている間も精悍な眉目はちっとも緩んでいない――いや、この男はもう眠ってなどいない。狸寝入りが通用すると思われているのか、それとも感づかれたとてどうでもいいのか……どちらにしろ、私よりも十は年上だろうこの男は、私を警戒こそすれ、脅威とは感じていないらしい。それでよかった。わずかな警戒もそのうち解けてしまえばいい。見くびられるのは、本心を言うと癪に障る。それでも、昨夜一瞬だけ感じられた、たじろいだような気配、それだけが私をわずかに満足させていた。
朝日が眩しい。カーテンは昨夜からずっと開いたままだった。ホテルの高層階なのだ、誰も見てはいない。そう言う男の言葉はもっとものことだが、言い返す余裕は悔しいけれどそのときの私にはなかった。
何もかもが疎ましい。
男の腕から抜け出すのに気遣いはしなかった。起こした上半身はともかく、腰のあたりは重く気怠い違和感が残っている。私を堕落へと引きずり込んだ男は、まだ夢を見ているのだと静かに訴えている。子供のように。
その額に指先で触れても、前髪の一房をさらってみても、石のような眠りは解けない。
いっそ口づけでもしてみましょうか。
そんな一言を出しかかって、やめた。その唇に一晩中何をされたのか思い出して。思い出した瞬間、汗やら体液やらがまとわりついたこの体が疎ましくなった。何より疎ましいのは、戯れている最中はそんな気がかりなど何一つ感じなかったこと。感じられないほど、いいようにされてしまったこと。
私は体だけでなく、意識までがめちゃくちゃに作り替えられたような気がした。かといってこの男にすべての責を押し付けるわけにはいかなかった。抱きすくめられて口づけられた瞬間の昂りに蕩けてしまったのは紛れもない事実なのだから。
わかっていても、頭から水でも浴びたい気分だった。
ベッドから抜け出した私を、彼は見送ることもしない。それに少しだけ腹が立ったのは、どうしてだろう。
二.
目を開けたとき、その女の姿はなかった。
眠りから覚めたのはいつだっただろうか。気づいた時には瞼を開かぬまま、布と肌が擦れる微かな音と、感情の読めない吐息を聞いていた。まだ夢を見ているふりをしながら聞くには悪くないものだった。女は何も言わず、ベッドからするりと下りていく。俺の空寝などとうに見切っているくせに。
裸足の足音が聞こえなくなると、遠くから滝のような水の音がした。バスタブに湯を張っているらしい。
目を開ける。見上げた天井を白い光が横切っている。夜の間からカーテンは開け放ったままだったらしい。そういえば最中、カーテンくらい閉めろだのなんだの、あの女が四の五の言っていたのが頭の片隅に引っかかっている。思い出し、我ながら呆れてしまった。熱をすべて吐き出した今となっては、自分が青二才に成り下がった居心地の悪さしかない。
サイドテーブルに手を伸ばし、煙草に火をつける。いつもよりも深く吸った一口目は、いつも以上に不味かった。
昨夜の煙草は旨かった。思い返すだけで体がむずがゆくなる。熱が残っているのか、新たな熱を植え付けられたのか。灰を落としながら、どちらでも同じだ、と思った。
シーツに皺を残していった、正体不明の女。
猥雑な街の空気を纏わず、それでいて酸いも甘いも何もかも知ったような顔をしている。濁った目を向けてくるくせに、その姿態は何も知らない無垢のままにも思えた。
何より官能に貫かれるあの瞬間の、わずかな気配。生まれて初めて体を暴かれる怯えと、俺には一生わからぬ種類の諦観が、確かに感じられた。
『まさか。』
信じられなかったのは、俺自身の内に罪悪感のような気持ち悪さが生じたことだった。
今更だろうという思いもある。反面、今になってもまだ光の一筋を見離せない自身に苛立ちもする。所詮この身は堕ちきることもできず、その事実に未練がましくしがみつくばかり。
だからだろうか。死んだように静かに眠る、確かに脈打つ白い肌に触れたのは。半ば穢されるように求められても透明なままの魂に嫉妬したのは。
水の音が聞こえる。俺は、水のようにこの腕をすり抜ける、あの肉体を幻視していた。
三.
広すぎるバスタブに湯を張っている間は、シャワーヘッドからの湯は出なかった。外観の豪奢さとは裏腹に、設備自体は大したことはないらしい。宿泊料に見合わぬ中身に鼻から息が漏れる。しかし虚飾と欺瞞の街には似合いだし、何よりも今の私にはお誂え向きかもしれない。
私はバスタブの底に腰を落ち着けて、ぬるい湯がこの身を覆うのを待った。間違いなく人生で一番、時間を浪費している瞬間だと思えた。
滝のような音を聞きながら、とりとめのないことを考える。考えようとする。いつまでも昨夜のことを思っていたくはなかった。いつまでもつまらないことを惜しむ、少女のような心でいたくはなかった。
膝を抱えた私の足元から、水の底がせりあがってくる。飲み込むなら飲み込んでしまえ。溺れられるならいっそ溺れてしまいたい。もう何も考えることもなくなれば幸福だろうか。例えばあの男の情婦になったりして――馬鹿馬鹿しい。なれるほど自棄でいられたなら、今という瞬間は訪れなかったのだから。
乾いた小さな音をこの耳が拾った。客室とバスルームを隔てるドアが開く音。腹のあたりまで漬かったまま、私は何もしなかった。思っていたよりも冷えていた体は、半端なぬるま湯から抜け出せないのかもしれない。
男は当たり前のような態度で浴室に姿を現した。
私は、この男のこれまでの人生を伺えない。鍛え抜かれた肢体には傷一つないのに、だからといってこの男の纏う雰囲気は死線に縁遠いとは言い難いのも事実だった。
その裸体が、じっと私を見下ろしている。何を意図しているのかわからないまま、私は背後にスペースを作るように体をずらす。男の表情がわずかに緩んだようだった。
「俺を利用するか」
言いながら滑り込んできた体が、嵩を増した湯よりも先に私を包んだ。
ああ、また。
嫌悪するより先に、得体の知れない安堵に襲われる。こうなってしまえば、むしろ嫌悪感の矛先は男ではなく私であるも同然だった。
「そうですよ。おかげで早く満杯になりました」
水面はあご先をくすぐり、両手は私の胴を撫でまわす。そこには懸念していたような意図は全く感じられず、私はなんだか期待外れな自分を恥じることすら、もうできない。
四.
昔、こんな映画を見たような気がした。丸いバスタブの中ではしゃぐ女と、目を細める男の姿。虚構の物語を思い出す俺の腕の中、女はただただ気怠そうに眼を閉じ、俺を背もたれ代わりにして全身を弛緩させていた。見ようによっては甘えきっているようで、あるいはすべてに投げやりな態度にも思える。たとえこの場で縊り殺されようが構わない――いや、どうでもいい、とでも言いたげな横顔。そう感じてしまうのは、畢竟俺はこの女を殺さねばならないのだろう……という予感があるからだろうか。
名も知らない。どこから来たのかも知らない。ただ、巡り合ってしまっただけの、おまえ。
俺よりも小さな手が、何を思ってか俺の手に重ねられる。薄い腹の上で絡む指先を、俺はどうしても解けない。
水の音がやまない。耳の奥に張り付いたまま、あの日から俺を水の底に押し込めている。いっそ呼吸さえ忘れてしまえたなら――誘惑を踏みにじる程度の正気が残っているのが恨めしい。
柔らかい体を引き寄せる。湯と溶け合った体温が心地よく、俺の瞼は自然と閉じていった。だらしのない有様だとわかっていながら、しかしどうこうしようとも思わなかった。
しなやかに腕を伸ばし、背後の俺を絡め取るおまえ。
薄い唇で作った笑顔を浮かべるおまえ。
俺に甘え、俺を誘い、俺と堕ちていくおまえ。
俺もおまえも、互いを知らない。知らぬまま、ひと時の戯れに耽溺しているに過ぎない。
薄衣だけを肌に纏わせ、おまえは朝の陽ざしを一身に浴びている。何もかもは白く、腹立たしいほどに白く、ほかの何にも汚されず、染まらない。
もしもおまえをこの手にかけるときが来たなら、かつてない歓喜と高揚が俺のすべてを焼き尽くすに違いない。
焼き尽くし、その跡には何も、何も残らなければいい。
ただ白い灰となること、それ以外に、何も。
漠然と考えている黒社会(?)川中島の書きたいとこだけ書いたやつ。