10. のつづき。晴信と、晴信の子を宿してしまった景虎の別離と最期。死ネタ。
2024年の更新は最後だと言ったな、あれは嘘だ。書けちゃったんで投げていきま~す…
(今回ルビが多いのでpixivのほうがよいかも…)
「私をただの女にしたいのなら、いっそ越後に攻め入って落としてしまえばいいでしょうに」
挑発と揶揄のつもりでしかなかったのを真に受けたわけではないだろうし、越後侵攻への足掛かりのためだけでもないだろうが、とにかく武田が信濃侵攻を初めてもう久しい。国境で小競り合いの続いていた諏方を落としたのを手始めに、武田の軍勢はじわじわと信濃支配を進めている。今となっては越後にほど近い北信濃までもが不安定な有様だった。
憂い顔の景虎はこれまでに覚えのない種類の懸念を初めて感じていた。
武田晴信が――あの若い武辺者が春日山を再訪し、この身に無体を働いたのはいつだったか。与えられた様々な感覚はまだ真新しい記憶として刻まれている。同じように景虎は、この手でいつくしんだ、あの柔らかな幼子の面影もまた、つい昨日のことのように思い出すことができた。あの頃、まだ勝千代と名乗っていた頃は、まっすぐな目をした素直な子だった。聡明で公平で、気立ての良い童だったのに――
諏方に攻め入った晴信が、義兄でもある諏方頼重を半ば騙し討ちのように自害せしめたと聞いた景虎の胸中は冷えていくようだった。
戦で命を奪うことを咎めるつもりはない。そんなことは乱世ではありふれた出来事で、自分だって命を奪われても恨み言を垂れる気は毛頭ない。しかし、ただ真っ向から打ち合って殺しあうでもなく、圧倒的な勝利を決めての上でのことでもなく、一度和睦の甘言を用いて助命した相手に自ら腹を切らせるとはいかなることか。
景虎には、理解できなかった。四方を山に囲まれた甲斐の国が貧しいことは知っている。北条と今川を正面から相手取るだけの力もない以上、国を富ませるためには信濃へと出なければならないのもわかる。それでもあのように卑劣な手段をとらなければならない理由が、やはり景虎には理解できなかった。
「理解されたいとは思っていない」
晴信の言葉は冷たく響いた。床に転がされたままの恰好で、景虎は言い表せぬほどの失望を感じた。
人気のない山寺にも関わらず、ここは不思議と手入れが届いていた。塵の一つも落ちない板張りの床に、乱れた衣が広がっている。
数日前、寝所に不審な文が置かれていた。怪訝に感じつつも開けば、末尾には晴信の花押が記されている。ぎょっとするのと同時に、わずかに心が沸き立ったのはなぜだろう。いや、これは高揚ではなく、義憤による興奮なのだ、これは丁度いい機会だ、晴信を問いたださなければならない――そう言い訳しながら、文が指定する場所へと景虎は馬を走らせた。
その真意が知りたい。ただその一心だった。
けれど晴信に会ってみれば、そんな詰問をする余裕などまったくなく、いつの間にかあの日のようにあっさりと手籠めにされている。また少し精悍さを増した体に組み敷かれながら、景虎は恥じた。こうなることを予想できていたのに、予想していたからこそ、ここへ来た自分の愚かさ、浅ましさを恥じた。
一通りが終わると、体中をむしばんでいた欲の炎が消え失せる。思考はようやく冷静になった一方で、体のほうはまだ気怠さから逃れられない。どうにか「なぜそのような戦い方をするのか」と、理解に苦しむ内心を吐露した景虎に投げつけられたのが、先ほどの言葉だった。
拒絶されたのが悲しいのではなかった。「理解されたいとは思っていない」……こんな言葉がすんなり出てくる晴信の孤独を想って、景虎は胸を痛めた。晴信には妻も子もいる。弟御には最大の信をおくほど仲が良いと聞くし、父を追放してまで自分を国主に盛り立てたほどの家臣団にも恵まれている。それでもなお、この男の裡には根源的な孤独が残っているのかもしれない。父に愛されず理解されず、とうとう別離の道しか選び取れなかった晴信は、己が誰にも理解されることはないという諦念を持つに至ったのかもしれない。どうせ理解されないのならば、そのために言葉を尽くすなど無駄でしかない。そんなさみしさが見て取れるようで、景虎は思わず、その背中にそっと触れた。親代わりをしていたあの頃のままだったなら、晴信は自分にその心情を打ち明けてくれただろうか。
汗ばんだ背は、しっとりと冷たい。
「……おまえは、何故ここに来た?」
振り返った晴信は泣き出しそうな顔をしていた。表情は昔と変わらないのに、それ以外の何もかもが、もはや変わり果ててしまっていた。
「……さあ、何故でしょうね」
景虎にもわからない。どうせこうなるのだとわかっていたのにここへ来た理由など、考えてもわからない。あるいは理由と呼べるような立派なものは存在しないのかもしれない。ただ晴信の顔が見たかった、その手に触れたかった。そんな衝動の他には、何も。
それからも幾度か、こうして逢うことがあった。もつれるように抱き合いながら、どこか冷めた目で景虎は自分たちを見ていた、つもりだった。戦に出向き、数多の人を殺めながら、また別の、新たな罪を重ねていく。何かを忘れたいのかもしれない、目をそらしているだけかもしれない。媾(まぐわ)う最中だけは二人、確かに夢中だった。それをよろこびながら疎みながら、ただ月日は流れ、過ぎ去っていく。
越後と甲斐は、二度、三度、善光寺平でぶつかった。いくらかの血は流れたが、大戦にはならなかった――これまでは。きっと次の衝突は、この程度では済まされないだろう。そんな直感がふと浮かぶ。そんな折だった。景虎が、異変に気付いたのは。
「やや子を授かりました」
常のように体を求めようとするのを制された晴信は、その言葉を聞いて目を丸くした。まさか何も知らぬ童でもなし、するだけのことをしていたのだから当然の結果でもある。わかってはいても、実際聞かされて何も感じぬわけがない。
「そうか」
晴信は静かに一言、そうして、何度かうなずいている。
「そうか……ああ、そうか……」
その表情は徐々に和らぎ、いつもは疲れきったようだった目元も穏やかな弧を描いた。
よろこんでいることは、景虎の目にも明らかだった。それがどんな思惑を含んでいようが、こうして笑顔の晴信を見ることができたのは――実に久しぶりに見ることができたのは――純粋にうれしいことだった。まだ大きさの目立たぬ腹に手を当てつつ、しかしよろこびばかりを感じてもいられない。言うべきことはほかにある。何をどう話そうかと逡巡する景虎を余所に、晴信は常になく浮き浮きとしているようだった。
「ならば、大事にしろ。おまえの立場では難しいだろうが、よく世話をしてもらえ」
そっと背中を支える晴信は、やさしかった。この思いやりこそが彼の本質なのだと、景虎は信じたかった。信じさせてほしかった。
「貴方に、頼みがあるのです」
景虎は、自分の顔に笑みが浮かんでいるのを自覚していた。晴信の前で自然に笑ったのは、ずいぶん久しぶりのように感じられる。昔に戻ったのか、先に進んだのか、よくわからなかった。ただ、どうして自分たちはこのように穏やかにあることができないのだろうか、という悲しさが、何よりも強く感じられた。
「うん、なんだ? 名づけか? それなら今考えよう。産まれてからでは難しいかもしれんからな」
甲斐と越後。遠く隔たった今の立場では産まれてくる子を抱きあげてやることすら叶わない。ならばと張り切る晴信に、景虎は首を横に振る。
「いえ、そうではなく」
そうして居住まいをただし、すっと背筋を伸ばして息を吸った。
「こうしてやや子を授かったからには、私もただの女になったも同然。であれば、貴方が越後に攻め入る理由もありません。手を引きなさい、信濃から」
詭弁だとわかっている。まさか晴信が女一人のために兵を動かしているわけなどない、それは景虎が一番よく知っている。わかっていてこんな交渉を持ちかけるのは愚かしい茶番に過ぎない。それでも――
「貴方、昔言ったでしょう? 自分を私の婿にしてくれと。弟でも嫡男でも、家督を譲って、それで、越後に身一つでおいでなさい。そうして三人で暮らしましょう。ただの男と女になって、どこかで静かに、」
それでもこんな話をするのは、無駄だとわかっていてこんなことを口走るのは、景虎にも何か、すがりたいような気持があったためだろうか。
「それはできん」
晴信の逡巡はわずかの間もなかった。
「俺は武田の棟梁で、甲斐の国主だ。この国に、民に責任を負うている。今更それを放り捨ててただの男になることなどできん。おまえに叩き斬られて死ぬるならその恥辱も甘んじて受けようが、その子のために、おまえのためには、俺は、」
答えは最初から決まっている。それでもためらいが生じたのは、ほかならぬ己の一言が、あり得た可能性を――武田晴信ではない個人としての願望を――握りつぶすものだと思い知ったからだった。一抹の未練を振り切りながら、晴信はすべてを断ち切る。
「俺は、己を偽ることはできない」
鋭い眼光に射抜かれても、景虎は動じない。息を詰めたまま睨み合ったのはほんのわずかではあったが、ずいぶん長く感じられた。ふっと景虎が抜けるような息を吐く。
「安心しました。たかが女子供のために腑抜けるようならこの場で斬り殺していましたよ。そんな軟弱に育てた覚えはありませんからね」
飄々と言いながら肩の力を抜いている姿に、晴信は思わず渋面を作った。
「試したのか、俺を」
「試したなどと人聞きの悪い。覚悟のほどを聞いたまでです」
似たようなものだろうが。と、晴信はいっそう眉間の皺を深くした。景虎は構わず、笑いながら続ける。
「晴信、ここからが本当の頼みです。貴方を一廉の大名と見込んでの、頼みです」
膝の上で両手をそろえ、こちらを見つめる姿。昔、春日山で過ごしていたころを思い出させる姿勢に、晴信は胸が締め付けられるような懐かしさを感じた。おそらく景虎の「頼み」は並大抵のものではないだろう。そんな直感も働いた。ありていに言えば、嫌な予感というやつだった。
「忘れなさい。この子のことも、私とのことも。長尾景虎(わたし)と武田晴信(あなた)の間には、何もなかったと思うて、この先は生きなさい」
二人の逢瀬などなかった。肌を重ねたりはしなかった。子も授かることはなかった。
これまでのすべてを否定しろ、忘れて、知らぬ顔をして生きてゆけ。
何もかもを拒絶するような言葉を吐きながら、景虎は笑っている。目を細める景虎の感情が、晴信には読めない。ぞっとするほど美しい顔は晴信を詰った。
「何故とは言わせませんよ。貴方が諏方を手中にするためにしたこと、私とて知っているのですから」
瞬間、晴信はまるで血が凍りついたような錯覚に見舞われた。
晴信によって自害に追い込まれた諏方頼重には、晴信の妹・禰々との間に男児があった。頼重亡き後の諏方を継ぐのはこの子かと思われていたが、晴信は頼重の娘――側室との間の子だ――に己の子を産ませ、諏方への影響力を強める方針を選んだ。それと同様に、景虎が己の子を産んでくれれば越後は獲ったも同然……晴信がそう考えるのも必定――景虎はそういう意図で今しがたの言を発したのに違いない。
越後が諏方と同じ轍を踏まぬよう、景虎はできる限りの抵抗をしている。晴信が甲斐の国主という立場を捨て去れないのと同じで、景虎もまた越後国主としての己を曲げることはできない。晴信にも、それくらいは理解できた。理解できるからこそ、指先が冷えていくのを感じていた。
違う、信じてくれ。俺はそんな考えでおまえを求めたのではない――
先ほど、子を授かったと聞かされて、本心からよろこんだ。純粋に、一人の男として、二人の間に子が産まれるのかと、ただうれしかった。けれど俺が笑ったのを、うれしさで表情を緩めたのを、景虎は誤解しているのだろうか。これで越後は我が手にと、そんな考えで武田晴信は笑ったのだと。
景虎は疑っているのだろうか。あの日春日山を訪れた日のことも、己が発した言葉すべても、たまらずぶつけてしまった熱情の正体さえ、越後を手にするための嘘偽りだと受け止めたのだろうか。
「この子の父はいないものとして育てます。そもそも無事に生まれるかもわかりませんし、私とて同じです。……私の身に何かあれば、貴方にとっては好機でしょうけど」
ふっと笑う横顔には軽蔑が浮かんでいた。
「そんな言い方はやめろ」
晴信は、思わず声を荒げてしまう。死んで欲しいなんて思っていない。できるならば無事に産まれてほしい、景虎にも何も起こっては欲しくない。しかし今、己がいくら言葉を並べたところで何を信じてもらえるのだろうか。疑われるだけのことばかりをしてきたこの身が。
「おかしいことを言いましたか? いえ、おかしいのは貴方ですよ。この場で私を殺してしまえば、労せず越後は手に入る。諏方を謀(たばか)り約定を破った貴方ならそのくらいして当然では? ……私はお腹の子が愛しい。守らねばと思っている。身重の体では、もう昔のように貴方を簡単に負かすことなどできないでしょうね。ほら、殺すなら今です。どうしました? 欲しいのでしょう? 信濃だけではなく、越後が」
景虎は、笑っている。笑いながら両腕を広げている。かつてこのすべてを受け入れてくれた笑顔は今は凍り、刺し貫くならそうしてみせろと晴信を挑発している。
できるわけがなかった。できないと知っているからこそ、己を突き放すために景虎はこんな真似をしたのだということもわかっていた。
土台、無理な話だった。越後は落とせまいと薄々感づいていた。それ以前に、こんな青臭い慕情には見切りをつけなければなかったのだ。己の立場を、景虎の立場を考えればそれが当然の行動。だと言うのに、浅はかにも体を求めてしまった。求めたのは体だけではない、心も同じ思いだと信じようとした。決して添い遂げることはできなくても、確かなものがあると信じたかった。己を好ましく――少なくとも憎からず想っているからこそ、誘いに応じてくれたのだと信じていたのに。
すべてが、砕けて無くなっていく。
血が滲むほど拳を握りしめても、何もかもはこの手から零れ落ちていく。いいや、最初から何もつかめてはいなかった。それを今、思い知った。たとえ今、景虎を抱えて連れ帰ってしまったなら、そのときこそ己は何もかもを壊してしまうに違いない。景虎の誇りも、己の矜持も、この胸に残る過去のぬくもりも。
「俺は……」
こんなことがしたかったのではない。こんな結末など、望んではいない。いくら言葉にしたところで、もはや信頼に足るだけのものを差し出せない。それ以上を言わず力なく立ち上がった晴信に、景虎は目もくれなかった。虚ろな足取りで立ち去る背中に、ただ声だけが投げかけられる。
「勝千代」
その名だけが、おそらくは二人を繋ぎとめていたのだろう。けれど、それはとうに捨て去った過去。帰らざる日々の亡霊でしかない。
「貴方を理解することができなかった……それだけは、申し訳なく、ふがいなく、思います」
泥の海を進んでいるようだった。晴信の足取りは不確かで、どこをどう歩いているのかわからない。喪失感。体の大半をそぎ落とされたような痛みを感じながら、しかし何を喪失したのだろうか、と、自嘲する。何も手に入れられなかった。あれほど望んだものを、結局天秤にかけた結果、選び取れなかった。しかし選びたかったかと言われると、やはりそうではない。あの場で景虎を選ばなかった己こそが誇り、それだけは間違いなく、違えてはならない晴信の芯なのだから。それでも苦しみは際限なく湧いてくる。晴信はそれを否定しようと懸命だったが、それもやめた。どうあがいたところで己が己である限り辛苦が付きまとうのであれば、これは必要な痛みだったのだと肯定するしかなかった。
手に入れなければならない。手に入らなかったもの以外のすべてを手に入れなければ、この苦痛とはつり合いがとれない。帰るべき場所へと馬を走らせながら、晴信は歯を食いしばった。頬を打つ風の冷たさに、悲しみは雫となって散っていった。
それから一年ほどして、再び武田は信濃へと兵を進めた。越後勢も当然、善光寺平へ南下している。海津城と妻女山とで睨み合うこと数日。総がかり戦をと定めた日の早朝だった。
濃霧の立ち込める犀川の畔、山本勘助の策を看破した越後勢が武田の本陣へとなだれ込む。これは不味いと頭では理解しながら、晴信の胸中は不思議と落ち着いていた。近習たちは逃げろと促す。しかしここまで混乱した状況でどこへ逃げられるものだろうか。ここで命運尽きるならばそれもまた天命か。らしからぬ考えに口元が歪む。その耳は確かに近寄ってくる蹄の音を聞いていた。
月毛の馬を駆り、真っ白な行人包の武者が、太刀を構えて迫りくる。陣幕ごと貫くかと思えるほどの、まさしく矢のような勢いでそれは晴信を目指していた。
無茶をする。死の恐怖でもなく焦りでもなく、呆れがまず、脳裏に浮かんだ。向こうにとっての好機には違いないだろうが、単騎で敵の本陣に乗り込むなど正気の沙汰ではない。いや、しかし己を討ち取る者は案外、このような命知らずの無法者なのかもしれない。ふっと口元に浮かんだ笑みは、いったい誰を笑ったのだろうか。振り下ろされる切っ先の煌めきを見つめたままだった晴信は、瞬間弾かれたように床几から腰を浮かせた。
朝靄の川中島に、打ち合う鉄の音が響き渡る。
騎馬武者の太刀は晴信の軍配に阻まれた。重い一撃を軍配でかろうじて流した晴信は、切り裂かれた左腕の痛みも、その手に残る痺れすら感じていなかった。それどころでは、なかった。
月毛の馬が数間先で足踏みしている。勢いよく駆けてきたせいか、馬上の人物から”はらり”と白い絹が落ち、覆われていた顔があらわになる。雪のように白い頬、凛としたまなざし。見間違えるはずなどなかった。
(景虎)
叫ばずにいられたのが不思議なほどだった。もう二度と見(まみ)えることはあるまいと心していたのに、なぜ今――。しかし晴信がどんな想いであろうが、景虎はお構いなしに再び打ち込んでくる。その顔に表情はなく、その目に温度はなく、振るう太刀筋に手加減はない。またも軍配で受け止めた瞬間、視線が絡み合った刹那、時が流れることをやめてしまったように感じられた。それはただの、晴信の願望がそう感じさせただけの、錯覚にすぎない。それでも確かにその瞬間、景虎はわずかに目を細めて、笑った。
そうして満足したかのように、武田本陣から離れていく。しばし呆然としたままその姿を見送り、晴信は白い絹布を拾い上げた。景虎が、巻いていたものだった。指先に伝わる滑らかさが、すべてを呼び起こす。過去にあった出来事も、この手が触れた肌の柔らかさも、確かに求めた熱情も、すべて。
混乱していた。なぜここに現れたのか、無謀にも単騎で駆け抜けて己に切りかかったのか。
(都合のいい、思い違いをしてしまいそうになる)
伝えたかったのではないか。子はともかく、自分は無事だと。あれ以来、当然ながら越後からは何の知らせも使いもない。かといって晴信のほうから殊更知ろうともしなかった。無事に産まれてほしい、景虎も息災であってほしいとは願っていたが、結果がどうであれ、知ってしまえば動揺するに違いない。だから、忘れようとした、考えまいとした。忘れたはずだった。
なのに、今またあの姿を目の当たりにした刹那、何もかもがよみがえる。斬りかかる瞬間のまなざしに咄嗟に立ち上がったのは、単に命が惜しいだけではなかった。あの刺すような視線が見つめるものが、ただ討たれるのを待つだけの情けない男であってほしくはなかった。
一体、何をしていたのだろう。
己を恥じた。どうあっても手に入れたかったものを諦めたのだから、なんとしてでもそれ以外は手に入れると決めたのだ。手に入れなければ、諦めた意味がなくなる。それが景虎と釣り合うだけのものかはわからないが、それでもこの日の本すべてくらいは手に入れなければ申し訳が立たない。景虎に、そして何より、己自身に。
景虎が去っていった方角をじっと見つめたまま、晴信はしばらく立ち尽くしていた。その腕から流れる血が、白絹を真っ赤に染めていた。
それから十余年――
西上の途で、晴信――信玄は病床に臥せっていた。長篠城に滞在中はしばし持ち直したものの、血を吐くこと数度、とうとう己の最期が近いことは、ほかならぬ信玄本人がわかっていた。結局甲斐へと戻ることにしたものの、もう一度故郷の土を踏むことは叶うだろうか。いや、あと何度、朝日を浴びることができるだろうか。脳裏をよぎるのは恐怖ばかりだった。
しかし結局、何も掴むことはできなかった男には、こうして道半ば、志半ばで潰えるのが似合いかもしれない。こけた頬を自嘲に歪め、うとうとと瞼を閉じる。眠りたくはないのだが、このところ起きて意識を保つことさえ難しい。緩慢に薄れゆく意識の中で、こうして己が死んだことすら気づかぬままにすべてが終わるのだろうかと思うと、ただひたすら恐ろしかった。
いつか、同じような思いをしたことがあった。
ずっと昔。あのときは本当に、何が怖かったのだろう。底冷えする越後の冬、幾重にも寝具にくるまって震えていた童のころ。覚えているのは、ただこの体を優しく包んでくれたあたたかさだけ。
思えばこの身が欲したのは、勝千代として心から欲しがったものは、たった一つだけだった。孤独な幼少期に不意に与えられた、見返りを求めないあのあたたかさがほしかった。自身を見つめるあのまなざしを独占したかった。なんと子供じみた願いだろうか。なんと矮小な欲求だろうか。それでも臨終の間際に及んで、この願いを偽ろうなどとは一切思えなかった。むしろ、その願いだけを求めて生きていたら、こんな未練を抱えて死ぬことはなかったのではと悔やむ思いすら沸き起こる。
あの日、景虎の言葉に従っていたらどうなっただろうか。
――弟でも嫡男でも、家督を譲って、それで、越後に身一つでおいでなさい。そうして三人で暮らしましょう。ただの男と女になって、どこかで静かに……
そう、例えば義信に、嫡男に家督を譲って、信繁にはそれを補佐してもらって、俺は隠居して好きに生きると恥も外聞もなく出奔してしまったなら。己と同じように景虎も、義兄やその子に家督をゆずってしまっていたなら。そうして二人で、越後でも信濃でも、どこでもいい、慎ましやかに暮らしていけたのなら、そのささやかな幸で己は満たされたかもしれない。
戦国最強を標榜しても胸中は満たされなかった。嫡男からは暗殺を企てられた。最も信頼していた弟はあの戦いで死んだ。あのとき俺が甲斐の国主を譲っていたら、こんな結末にはならなかったかもしれない。
俺は間違ったのだろうか。
あのとき己がその言葉を受け入れたなら、きっと景虎は「その答えを選ばせた」責任を取って、何もかもを捨てて地獄まで付き添ってくれただろう。
やはり俺は、間違っていたのだろうか?
――違う、そんなはずはない。否定したくて瞼を開いても、ぼんやりと視界が霞んでいく。武田晴信として、信玄として、これまで生きて戦い抜いた。これこそが己の願ったものだと、信じた道を歩んできたつもりだった。しかしこんなにも曇った目で、本当に何もかもを見通せていたと言えるだろうか。己が正しかったか、間違っていたか、悪逆の誹りを受けるか、名君の栄誉を得るのか、それは後の世が定めることなのだろう。わかっていても、せめて――そう何かにすがりたくなる。あの雪の夜、差し伸べられた腕を、開かれた胸を、もう一度頼りたくなる。
(俺は、この生で何を為したと言えるのだろうか?)
答える者はない。
信玄の眦から涙がこぼれた。誰も目にすることはなく、流れるままと思われた雫は、しかし確かに、信玄以外の誰かによって拭われた。知らぬ間に誰かが傍に控えていたのかと、気まずさに冷静さを取り戻しかけたが、しかしこれが近習や側仕えのすることとも思えない。こんなことをしてくれた人は、たった一人しか覚えていない。けれどその人はもう、信玄がいくら手を伸ばしたところで届かぬところへ去ってしまった。
――気のせいだ。未練がましいこの心が感じさせた、ただの儚い白昼夢だ。
あの人はもういない。何かの間違いでここにいてくれたとしても、もう己を慰めてなどくれない。だからこれは、現実ではない。都合のいい夢幻を勝手に広げているだけだ。冷静になれ、今わの際にこんな幻想にすがるなど、武田信玄に許されることではない。いくら信玄が己を戒めても、心のどこかではその幻に甘えたい欲求を否定できなかった。だからだろうか、この耳は聴きたかった声を聴き、感じたいままに香りまでもを拾い上げてしまう。
――勝千代は、よくやりましたよ。
ふわりと包み込むような声が降ってくる。梅の香りを焚き染めた袖が、そっと目元を押さえてくれる。
――だから、そうやって自分を責めるのはおよしなさい。
いつの間にか信玄はやわらかい膝の上に頭を乗せられ、細い指先にその額をやさしく撫でられていた。真っ白い光が、焦がれた女(ひと)の姿を形作る。
(ああ……)
すべてはただ懐かしく、この胸をかき乱した。こみあげてくるすべてを堪えることなど、できなかった。その名を呼んで、その体を抱きしめて、伝えたい言葉も想いも限りなどないはずなのに、もはや己の体は意のままにならない。信玄の苦悩を写し取ったように、彼女は表情を昏くした。
――けれど……貴方が自分を責めるのは、私のせいでもありますね。あのとき、私は貴方に、とてもひどいことを言いました。それをずっと、悔やんでいました。あんな言い方をしなくても、賢い貴方はわかってくれただろうに、と……本当に、愚かでした。私には詫びる言葉も、ありません。
許してくれとも言わず、ただ手のひらが頬を包み込む。自身の手を重ねながら、信玄は唇を震わせた。
(謝る必要なんか、ない)
あのとき俺を突き放したのは当然だ。俺はただの青二才で、なんの分別もついてない愚かなだけの男だった。あの言葉は当然のもので、もしそれがひどい言葉だったというなら、それを言わせた俺にこそ非がある。すまなかった。俺は本当に軽率だった。慕っていたはずなのに、傷つけたくなどなかったのに、もっとも醜いやり方で結局は傷つけてしまった。謝ったところで何にもならないけれど、許されるとは思ってもいないけれど、どうしても詫びたかった、詫びる言葉を言わずには死にきれない。
いくら信玄が願っても、言葉は音となることもなく、掠れた喘鳴に消えていく。けれど白い光はすべてを承知しているかのように、病魔に侵された信玄をあたたかく包んだ。どこからともなく散り落ちる花びらが降り注ぎ、視界は真っ白に塗りつぶされていく。
――ありがとう……勝千代は優しい子ですね。その優しい心を殺してまで、貴方は本当に、頑張りましたね。こんなになるまで、立派に戦いましたね。貴方は私の、誇りです。
欲したものすべてがそこにあった。望んでいた言葉があたたかく降り注ぎ、荒れ地に降る雨のように心を満たしていく。
この身を抱くのは懐かしさだろうか、それとも、慕情だろうか。こうして背中を撫でてもらうと、己はいつも、安心で胸が詰まるほど幸福だった。その幸福が最期に用意されているなんて思いもしなかった。たったそれだけで、すべての苦痛は消え去っていく。気づけば信玄の腕も同じように細い背を抱きしめていた。童がすがるように、強く強く。そのまま、抱き合ったままの二人を中心に、嵐のように風が吹き荒れた。もう何も見えず、聞こえない。舞い上がる花の吹雪は二人を覆い、どこかへとその姿を運び去って――消えた。
それから――
信玄が瞼を開くと、どこかとても広い、草の茂った原野に一人きりで佇んでいた。不思議と全身の痛みは消えている。苦痛が除かれたおかげで、意識もはっきりしてきたようだった。腕を振り、足を上げてみる。体がとても軽い。まるで童のころに戻ったようで、信玄は走り出す。ああ、またこうして走り、笑うことができるとは、夢のようだ。そうして飽きるまで無我夢中で走り回って、ふと気づくと見覚えのある邸の中に入り込んでいた。
(ああ、ここは……俺は、ここに戻りたかったのだろうか。あるいはここで、生涯を終えたかったのか)
もしもここが己の還る場所だとしたら、還りたいと願っている場所だとしたら、国主としてこれほど薄情なことはないだろう――と、信玄は口元をゆがめる。育った館でもなく、領内のどこでもない。ここは己が無垢とあどけなさと素直さを、そっくり置き去りにした場所だった。
冷たい板張りの床を踏みしめて歩く。走り回って叱られたことはなかったが、いつも大人しくしていようと心がけていた。この屋敷の主は静かな人だったから、気に入られようとしていたのかもしれない。
柱の陰から、顔をのぞかせる。昔よく、こうしてあの人を見ていた。今このときと同じように、文机に向かって書状を読んだり、書いたりしている姿をうかがっていた。声をかけることも忍びこむこともしなかった。仕事が終われば、あの人は俺を見てくれると知っていたから。
――どうしました、勝千代
ほら。もっとずっと前から気づいていたのに、ほんの今しがた目にとめたような口ぶりで、俺に笑いかける。知ったうえで放っておくなんて意地が悪いようにも感じたことがあったけれど、仕事を切り上げることをしなかったのは、きっと俺が気後れや遠慮をしないようにと、そういう心づもりだったに違いない。今ならそう、わかる。
――さあ、いらっしゃい
筆を置いて、まとめた書状は近習に下げさせて、俺を手招きしてくれる。仕事部屋に入っていいものか迷っていると、眉尻を下げつつ立ち上がり、俺のほうに歩み寄ってくれる。あるときは頭を撫でて、あるときは頬を包んで、まるで何よりも大切なものに触れるようなやさしさで、俺の手を握ってくれた。
――今日は、何をして遊びましょうか
本を読みましょうか、それとも、弓の稽古でもつけますか?
俺の手を引いてどこかに連れて行きながら、あなたは花のような笑顔でそう訊ねる。
なんでもいい。なにもしなくたって、それでもいい。二人で過ごせるだけで、うれしかったから。ああ、一言くらい、そう伝えればよかった。それなのに、いつまでも童のままで、思うこと一つ声に出せない。ならばせめてと、繋いだ手に力を込めれば、ゆったりとしたその微笑みに何もかもが解けてしまう。
――”とら”さま。
――はい、なんですか?
勝千代は、あなたを慕っておりました。昔も、今も、この先も。
だからどうか、この先は、俺を傍に置いてください。
この身がすべてから解き放たれた以上、望むことは一つしかなかった。いつか言葉にしてくれたとおり、どこかでひっそりと、寄り添って暮らしたい。ずっと二人で、いつまでも。その笑顔を俺だけに向けてはくれないか――こんなことを言ったら、やっぱり俺は、笑われるのだろうか。笑われてもいい、笑っていてほしい。ずっと俺の隣で笑っていてくれ。それだけで、もう、何も――
すべては収束し、光の渦の中へと消えていく。ここではないどこかへ、二人の姿を運び去っていく。後悔も未練もすべて消し去り、残すものは抜け殻となったものだけ。
真っ白な朝日が、物言わぬ骸を照らしていた。穏やかな表情には、干上がった川のような涙の筋が残るばかり。咲き誇る花を散らし、枝を揺らす風が駆け抜けていく。
薄い春霞が揺れる、四月の朝のことだった。
(了)