小説 · 2024年12月14日

川中島はこんなことしない – 傷痕と川中島

 どういう意図が込められているのか俺には知る由もなく知る気もないが、さんざ交わって満たされた後、この女は俺を飽きるまで撫でまわす。それは女としての愛撫というよりはむしろ、母が子を慈しむ種類の――もっというと相手を下に見た愛玩の意図もあるのかもしれなかった。質の悪いことにこの女からは何の悪意も感じられず、さりとて俺に奉仕しているわけではないのは明らかで、おそらくは自分の気まぐれをただ満たしたいだけなのだろう。俺はそれを拒むことはなかった。
 あるとき、景虎は俺の左腕の傷に触れた。
 うすく盛り上がった皮膚を撫でられると、くすぐったくて仕方ない。珍しく労わるような手つきのせいだった。どうせ触るならもっと、例えば傷口を開くように、あの時のようにすればいい。
「おまえがつけた刀傷だ」
「私が?」
 記憶にない。という表情は一瞬だけだった。すぐに思い出して「ああ」と笑う顔が、少しだけ懐かしい。同じ顔で、この女はあの日、川中島で俺に太刀を浴びせるだけ浴びせて笑った。
「こんなものを後生大事に残しているなんて、晴信もかわいいところがありますね」
 気を良くした顔で笑われて、さすがに鼻白んだ。景虎にではなく、俺に。
 例えば新八のように、全身の傷痕に誇りをもっているのなら、その傷痕ごと霊基の情報として刻まれるだろう。俺はよく知らんが、例えばその傷が致命傷であるという逸話が殊更人口に膾炙しているのなら、その傷痕は彼/彼女自身を構成する一つの要素として座に刻まれるのかもしれない。
 しかし俺のこの傷は致命傷でもなく、誇りでもなく、しいて言うならば憎悪と慙愧の念でしかない。結局景虎に勝てず、一矢報いることもできぬまま死ぬほかなかった恥の象徴、あるいは心残り。
 景虎の言う通り、こんなものが俺の霊基の情報として刻まれているのは我ながらほとほと女々しくて呆れる。こんな傷痕などなくても、俺は願いを見失ったりはしない。
 自分が刻んだ傷痕を撫でる景虎の顔を見上げる。充足しきった顔は何を考えているのだろうか。
 俺がこの傷痕に執着しているのがうれしいのだろうか。
執着してしまった俺が己を恥じている様を嗤い、悦んでいるのだろうか。
 笑っているのに感情の読み取れない景虎の手が、俺の頭を抱いていた。得体のしれないなにかであっても、肉体は滑らかで柔らかい。俺の理性を剥ぎ取って、本能だけの男にしてしまうほどに。
「恥じることはありませんよ晴信。あなたは私に本気で切りかかられて生き延びた。この私が殺せなかったんですから」
 慰めているつもりだろうか。しかしこんな言葉を臆面もなく口に出せるあたり、この女は俺を殺せなかったことを特に悔いても恥じてもいないのだろう。
 結局俺のほうが執着しているのだ。この傷痕を捨てられないように、この女への憎しみも反感も捨てることができない。
 柔らかい胸に歯を立てる。血がにじんでも肉を裂いても、それは大本の情報に記録されることもなく、ただ雪原は白く真新しいままに俺の眼前に広がるばかり。
 己の矮小さをかみしめながら、それをゆるす腕に身をゆだねてしまう。

 なぜこの女には傷痕一つとしてないのだろうか。
 なぜ俺はこの女の体に傷一つ残せないのだろうか。
 
 約束を裏切られたような失望は、鉄の味をしている。

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