小説 · 2024年12月4日

追憶

「流転」の幕間的な小話です。随時追加予定。番号がついているけど続きものではなく、それぞれ独立した話です。

::目次::
1(晴信)
2(景虎)
3(モブ女子)
4(幼子)
5(放生月毛)
6(黒雲)
7(モブ男子)
8(晴信 – 巫山の雨after)
9(晴信-逆ナン)
10(景虎-ナンパ)
11(綾御前)
12(晴信)
13(晴信 巫山の雨after その2)
14(晴信)
15(モブ女子)

1(晴信)

 こんな夢を見た。
 二人で博物館を訪れた帰り道、夕日を受けて走る電車の中。疲れたおまえがうつらうつらと船をこぎ始める。隣の客に凭れそうになるのを引き留めて数分、肩に預けた頭の重みで俺も眠くなっていく。
 電車が大きく揺れた。降りる駅まであとわずかだった。
 危なかった。寝過ごすところだった、さあ、降りよう。
 おまえの手を引いてドアをくぐったはずなのに、振り返ったらおまえは、走り去る電車の中から俺をじっと見つめている。
 今にも泣き出しそうな笑顔で、もう二度と会えないような悲しみをにじませて。
 俺はただ、赤い夕陽を背中から浴びながら過ぎ去っていくおまえを見送る。もう走っても、何をしても、この手は届かない。
 姿が見えなくなっても、音が聞こえなくなっても、俺はそこから動けず、声を発することもできずにいた。
 ただ一人きりでホームに残された俺を、幼いおまえに似たこどもがじっと見つめている。



2(景虎)

 六月だというのに暑い日が続いている。
 その日も蝉の鳴き声で目を覚まして、真っ白い朝日に思わず目をすがめてしまった。
 今日も暑い日になりそうだ。
 隣に眠る人はうっすらと汗をかいている。もう少し冷房の温度を下げればいいのにと言っても、私の体を冷やしたくはないし、別の部屋で眠るのも嫌だからと言ってきかない。
 そのやさしい額に張り付いた髪に触れる。そっと汗を指先でぬぐい、重い体を起こしながら唇を落とす。
 私もこの人と離れて眠りたくはなかった。できるだけ長く共に在りたかったから。大きな手を握ったまま眠りに落ちる瞬間の幸福と、目を覚ました瞬間に愛しい顔を認める安堵。まだ私はここにいられる。涙がこぼれそうな幸せをかみしめながら、また夏の一日が始まっていく。
 いつものように朝食を済ませて、いつもの電車に間に合うように家を出ていく貴方を見送る。
 貴方は「いってきます」のキスをして、私のお腹を、その中にいる命を、かわいがるようにそっと撫でる。
 愛しさを浮かべた眼差しをこの瞼に焼き付ける。唇は貴方のやわらかさをずっと覚えている。私が過ぎ去ってしまっても、この子はきっと貴方をつなぎとめてくれる。
 だから私は、あまり心配していなかった。だけど、倒れてしまったのが外出先の路上で、運悪く通行人がいない場所だったのはさすがに焦りを禁じ得なかった。
 私はどうなってもいい。きっとどれだけ人の命を救う術(すべ)が進んでも、私がどれだけ準備をしていても、この定めから逃れることはできないとわかっていたから。私と貴方が寄り添って生き続けることだけは、何かとてつもなく大きなものに反した在り方だと教えられたから。そして、他ならぬ私も貴方もゆるさないだろうと知っていたから。
 だけど、この子は。この子だけは、私たちの定めには関わりのない存在だから――
 瞼が重い。腕も足も動かない。声すら出せないまま、意識が遠くなっていく。
 どうかこの子だけは、当たり前の幸福を受け止めて生きて欲しい。私がそれを見届けることができなくても、あの人はきっと良い父親となってこの子を見守ってくれるから。
 何も感じないはずの指先が、確かに何かに触れた気がした。
 流すつもりのなかった涙がこぼれた。
 終わりの時を覚悟していたはずなのに、この胸には未練や執着がいっぱいに詰まってしまっている。人とはこのように貪欲なものだったのでしょうか。ついぞ知ることのできなかったもの、その欠片に触れさせてくれた貴方の顔だけを想いながら私は逝く。
 さようなら、私の、たった一人の、大切な――


3(モブ女子) 

「あんた、遊ばれてたのよ」
 友人の指摘はあまり響かなかった。なんとなくそうだろうな、と感じていたからだった。それに、遊ばれていた相手の男とはとうに関係解消して久しく、今さら腹を立てても悔しがっても無駄だった。
 だからといって思うところがないわけではない。別れようと言われたときは、子供のように泣いて喚いて、何でもするから捨てないでなんて、みっともなく追いすがったものだから、わたしのすべてを拒絶して去っていったあの男のことをそれはもう恨んでいた。友人から指摘などされなくても「ああ、この人はわたしがこの人を想うほどには、わたしのことを想ってくれなかったのだな」と思い知ったし、あとはその情の薄さをいっそ呪うほどだった。
 いつかあの男も、どこかの女にこっぴどく振られて痛い目を見ればいい。
 ……などと考えていられたのはせいぜい二か月ほどだった。わたしは勤め先に出入りする業者の担当営業と親しくなり、一年ほどで結婚して子供にも恵まれた。人はいつまでも何かを、誰かを憎み続けてはいられないのかもしれない。
 とにかくわたしは幸せだった。あの男のことをほとんど忘れてしまうくらいには。

 再び彼を見かけたのは夫と子供たちと訪れた週末の商業施設だった。数年ぶりに見る彼は、愛らしい女の子から舌足らずに「パパ」と呼ばれ、手をつないで歩いている。その左手の薬指には指輪がはめられているのを見て、あんな男が誰かと結婚して子供まで設けているのが多少信じられず、わたしはひそかに彼らの後ろ姿を目で追ってしまった。
 しばらく歩きながら、ふと気づく。あの子の母親の姿が見えないことに。
 正直に言えば気になっていた。わたしを振ったあの男がどんな女性を伴侶として認めたのか。さぞ美しい女性に違いない、いや、案外見た目は地味でパッとしないけれど気立てのいい女性だったりするのでは? そんな邪推をしているわたしの前で、よちよち歩きの女の子は父親に両手をのばして「だっこ」とせがんだ。立ち止まった彼の腕がやすやすと小さな体を抱え上げる。愛情しか感じられない優しい態度の一瞬の隙間に、わたしは彼の首元に光る小さなものを認めた。遠目だったので確証は得られないけれど、あれは革紐に通された指輪だった。
 きっと、嵌める人がもういない指輪。
「どうしたの?」
 足を止めてしまったわたしを、夫が気遣う。
 ちがう、そんなことまで望んでいなかった。わたしはただ、少し痛い目を見て欲しかっただけ。
 あの人から最愛の人を奪おうなんて、何の罪もないあの幼子から母親が奪われることなんて考えもしなかった。――そうじゃない、そんなわけない、わたしの恨みが人を殺せるはずがない。でも今一瞬、いい気味だって思わなかった?
 思考がぐちゃぐちゃに絡まっていく。総身から血の気が引く感覚の中で、だけどわたしはほんの少し安堵していた。安堵したかったから、信じようとした。
 あの人が一人きりではないこと、それだけはきっと不幸ではないことだから、と。わたしは縋るように我が子を抱きしめた。わたしはただ、幸せなだけだった。


4(幼子) 

 父はとても優しい人で、娘の私に手を上げることはもちろんなかったし、声を荒げることさえ稀だった。そんな父が私はとても誇らしく、大好きだった。
 一度だけ、父をひどく悲しませたことがある。
 小学生になったばかりの頃だった。父はよく、勤め先で開催されるイベントや社員旅行に私を連れて行ってくれた。父の同僚には私と同じ年頃の子供の親も大勢いたので楽しかった。大人たちも優しかった。誰もが、母のいない私を気遣ってくれた。
 そんな中で、一人の女性が私のことを殊更にかわいがってくれていた。多分父よりも十くらい年下の、とても優しそうできれいな人だった。彼女はきっと、父を好いていたのだと思う。酔っぱらった誰かがふざけたのか、あるいは彼女自身が言い出したのか。私の母になってくれるかもしれないね? なんてことが、子供の私の耳に入って来た。
 何も知らない私はその話がうれしかった。父が彼女と結婚してくれたら私にもママができる。そんな、自分のことしか考えていない短絡的な願いを父に打ち明けたとき、父は見たこともないほど、悲しそうに眉を寄せて目を細めた。
 ごめんな、パパはそれだけは、できないんだ。
 私の頬を大きな両手で包み、息が詰まりそうなほど苦しそうな声でそう言って、父は私を強く抱きしめた。
 そのときの私にはわからなかった。父がどうしてそんなにも悲しそうな顔をするのか。わからないまま、私は泣きべそをかいてしまった。ママが欲しいだけなのに。パパは私がママのいないかわいそうな子でもいいの? そんなことさえ口走ってしまった。
 それ以降、父の勤め先の行事に参加しても、彼女が今までのように親し気に近づいてくることはなかった。父と彼女の間に何があったか私は知らない。私はさみしかったし、父を少し恨んだ。
 数年後。父が私の誕生日を祝ってくれた夜。深夜に目が覚めてしまった私は、それを見てしまった。薄暗いリビングのソファに、父が一人で座っている。少し丸められた背中はかすかにふるえているようだった。
 父は、泣いていた。
 いつもサイドボードの上にあった母の写真が見当たらない。理由はすぐにわかった。きっと父は、母の写真を見つめながら泣いている。十年以上が経っても、涙が溢れるほどに母を愛している。
 私は自分が恥ずかしかった。こんなにも母を愛している人に、誰でもいいからママになってくれそうな人と結婚して、なんて、言ってはならなかった。私は忍び足でベッドにもぐりこみ、父と同じように背中を丸めて泣いた。かわいそうなのは私ではなかった。私よりも父のほうがずっとずっと、かわいそうだった。あんなに愛している人に置いて行かれた父を思って私は泣いた。
 その日私は、生まれて初めて母に怒りを覚えた。それが不当なことだと知っていながら、それでも布団を握りしめる手を緩めることができなかった。
 ママはどうして、パパを一人ぼっちにしてしまったの? 
 私が生まれた日に死んでしまった母を恨みながら、眠りにつくまで泣いていた。


5(放生月毛/仮) 

 やさしく触れられた日のことを、今も覚えている。
 工場で組み上げられ、美しく磨かれ、そうして生まれたばかりの私は、どんな人のもとへ行くのかと期待する半面、不安もあった。乱暴に扱われたりしないだろうか、危なっかしい運転をされないだろうか、あっという間に傷だらけなっちゃったら嫌だなあ。
「わあ、ピカピカですね」
 そんな私の不安をはらうように、思っていたよりも細く優しい手のひらが私を撫でる。私の主は、女性だった。これにはさすがに驚いた。軽やかな声の主は、私のような大型車を選びそうとは思えないし、なんならそもそも二輪車というものに興味すらなさそうな印象だった。
「これからよろしくお願いしますね」
 けれど主は私をたくさんかわいがってくれた。見かけからは想像もできないほど私を上手く駆る姿は、まるでお手本のようだった。転んだりもしないし、危ない真似なんて一度だってしなかった。主は私を、生活のためにそばに置いているのではなさそうだった。休日のたびに主は遠くまで走って、一人きりで美しい景色を眺めては物思いにふけるような憂いのある横顔になった。一人になる時間を求めていることは明らかだった。私はそんな主に静かに寄り添うことができる自分を誇りに思っていた。
 主はだんだん忙しくなって、私と過ごす時間も少しずつ減っていった。それでも、毎回最後は名残惜しそうに私の体を一撫でしてくれる。それで十分、主の心は伝わった。私たちには言葉はいらなかった。ただその身を一つにして風を感じている間、私たちはこれ以上ないほど満ち足りていた。
 住まいを転々とする主に付き従って数年、私はガレージというものに預けられることになった。主の新しい住まいには、私を置くスペースがないらしい。それは仕方がないことだと思った。納得もしていた。だって、私を優先した結果、主が不便をこうむるのはおかしいことだから。
 銀色のカバーをかけられて暗いところにいるのは少し寂しかったけれど、主は定期的に私に会いに来てくれた。昔よりもずっと近場ではあったけれど、走ることもあった。
 それから――どれくらいが経っただろうか。ずいぶん久しぶりに会いに来た主の傍らには、知らない男性の姿があった。二人はとても親し気で、主の態度は私に対するものよりもずっと優しい。けれど嫉妬するほどの余裕はなかった。主は私にお別れをしにきたのだろう、ということが、わかったから。
 本当はもっと乗ってあげたかった、と言いながら、主の手が私をいたわるように撫でる。本当に最後みたいで、嫌だったのに、私は感じ取ってしまった。
 もうひとつの、息吹を。
 二つの命が私に教えてくれる。いらなくなったから、さよならをするのではないのだと。主には何よりも大切なものができたなら、私だってそれを大切にしたい。そのための別れならば、受け入れよう。私は胸がいっぱいだった。きっと主とのめいっぱいの時間を過ごすことができたと思えた。
 最後に主たちは私と写真を撮って、その場を後にした。さようなら、主。どうかお元気で。暗いガレージの中で、私はじっと旅立ちの時を待っている。主の手のぬくもりを覚えたままに。


6(黒雲/仮) 

 第一印象はよくなかった。悪かったと言ってもいい。
 その若造は、本当はもっと値の張る、それこそ郊外に家が買えそうな金額の車が欲しかったらしい。そうは言っても勤め始めて一年目のペーペーにそんな金があるわけもなく、親兄弟を頼って頭金を借り、ローンを組んで購入したのが俺だった。
 さも安い車のように思われそうだが、俺だって世間一般の車と比べればそこそこ高い方だ。単に若造の望みが桁外れに分不相応なだけで、俺というものが劣っているわけではない。
 そのあたりは十分理解しているらしく、俺が納車された日の若造の態度は……少しばかりかわいげのあるものだった。でかい図体して子供みたいに目を輝かせて、運転席でハンドルを握ってニヤニヤしている。子供か。呆れ半分、悪い気はしなかった。
「よろしくな、相棒」
 若造は何かと俺に乗っては出かけた。感心なことに手入れもほとんど自分でこなした。洗車はもちろんオイルやタイヤの交換まで。そのために格安の社宅を出て、駐車場の広い借家を選んだというのだから、半分くらい呆れてしまった。きっとこいつは乗り物好きの坊主のまま、大人になっちまったやつなんだろう。
 若造はよく俺に女を乗せた。どいつもこいつも見目のいい女ばかりだったが、誰とも長続きはしなかった。長続きさせるつもりもなかったのかもしれない。女を連れているときの若造は、あまり楽しそうだとは思えなかった。一人でドライブしているほうがよっぽど楽しそうだった。そういうところが、まだ尻の青いガキなんだよな。俺が言葉を発せられたなら、そう苦笑していたに違いない。
 様子が変わったのは二年ほど前からだ。その女を乗せるようになってから、若造はよく笑うようになった。家まで送った夜なんかは、一人きりの車内で物憂げな溜息すら吐く始末。どうやらようやく本気になれる相手を見つけたらしい。俺はなんだかほっとしていた。まるで親か兄にでもなったようで落ち着かないが、やっぱり悪い気分ではなかった。
 その相手と何度もドライブをして、時折一人きりででかけて、どれくらいが経ったか。俺は若造よりも年下の、後輩とやらに譲られた。
 まあ、仕方ない。
 俺は助手席にチャイルドシートを乗せられても文句はないが、2ドアクーペの車内に大人二人と、生まれてくる赤子は窮屈すぎる。
 若造は父親になり、家族のための車を調達するのだろう。
 それでいい。若造もちゃんと大人になったということなのだから。
 新しい主が俺に乗り込む。前の主に比べればいささか軽いが、しっかりとした重みと、それから沸き立つような高揚が感じられた。
 よろしくな、相棒。
 いつか聞いた言葉が繰り返される。型落ちもいいところの俺だが、引退の日はまだのようだ。




7(モブ男子)

「あ」
「あっ」
 正直に言うと顔を合わせたくはない相手だったので、「げっ」ではなく「あっ」が出た自分を褒めてやりたかった。彼女のほうはそうでもないらしく、なにやら嬉しそうに笑っている。なんでそんな顔ができるのだろう。俺が、俺たちが彼女に何をしようとしていたか全部知っているだろうに。
「丁度良かった。少し話があります」
 美しい笑顔には有無を言わさぬ圧があった。煙草休憩に抜け出してきたのに……なんて言えるはずもなく、自業自得の弱みを握られている俺は、友人の彼女に従うしかなかった。

「は? 爪?」
 連れていかれた休憩ラウンジの端。カウンター席に並んで何を言われるのかと思ったら――
「晴信がいくら言っても深爪をやめないんです。どうしたらやめさせられますか?」
 だと。これは予想外過ぎて呆気に取られてしまった。
「……なんで俺に聞くんですか……?」
「晴信と仲がいいでしょう? それに同じ男性です。私よりは知っている可能性が高いでしょ?」
 まあ、そうっすね……。と、言葉を濁しつつ、俺は返答に困った。というか、対応に困った。
 爪を短く切る理由? わかる、わかるよ。多分俺がするのと同じ理由でアイツもしてるはずだよ? でもそれくらい彼女ならわかるんじゃないの? それこそその指でその……ナニされたのであれば推測くらいつくのでは? それとも何? アイツ爪だけ整えてなんにもできてないの?
 考え込む俺の前で、彼女が子供のような顔で「どうして爪を短くするのか?」と聞いてくる。難問。難問すぎる。もしアイツがまだ手を出していないのなら、アイツに限ってそんなことあるわけないがもしそうだとしたら、俺が説明するのはまずいのでは? 同じ男としてそんな無様は耐えられない。
「本人に聞いた方がいいんじゃないかな~……俺の理由とは別だろうし……」
 逃げを打ったら案の定不満そうに目が細められる。
「いや、俺楽器やってるから! 爪長いと弦抑えられないんすよ!」
 嘘ではない。趣味でベースをいじってるのは事実だが、それでもこんなに短くする必要はない。しかし彼女はやや不服そうながらも納得したらしく、本人に聞いてみると言い残してラウンジを去っていった。

 その数日後。
 昼休みの食堂で二人と遭遇した。珍しく一緒にランチをしているらしい。なんとなく姿を隠したくなったがそれより先に彼女のほうが俺に気づき――目にも明らかなほど狼狽えて、赤面した顔を隠している。アイツはそんな彼女を呆れ混じりに眺めつつ、こちらも気恥ずかしそうにむっつりとした顔になった。どうやら真実にたどり着いたらしい。それはいいのだが、俺は一体何に付き合わされたのだろうか? 惚気?




8(晴信)

 多分、怖かったのだと思う。その日無垢を失う景虎よりも、それを奪ってしまう俺の方が。
「こんなものか」と思ってしまうことを、心のどこかで恐れていた。
 すべてが、タカの知れたものだった。交際相手とのセックスは最初の一回だけが楽しくて、それが終わってしまえば「こんなものか」と興が冷めたように関心を失ってしまう。だからと言って俺から別れを告げることはなかった。人として最低限のところを保っていたかったためだろう。
 もしかしたらこの相手とは二回目、三回目も楽しめるのかもしれない――そんな淡い期待に縋ってみても、結局俺は満足することがなかった。優しい恋人を演じ、取り繕って交際を続けても女は簡単に気が付くらしい。失望したような目に見据えられながら「別れましょう」と言われると、正直「またか」という感想しか出てこない。二つ返事で承諾すれば、それでおしまい。何人かは「嘘、言ってみただけなの、本当は好きなの」なんて言って態度を翻したりもしたが、そんな「嘘」を吹っ掛けられた時点で俺の気持ちが戻るわけもない。それに、わかっていたからそんな愚かな「嘘」を吹っ掛けたのだろうし。
 俺の中に染みついたいくつもの同じ過去が、俺を臆病にしている。
 俺は景虎に対しても、一度抱いた後に「こんなものか」と落胆するのだろうか。
 だったらずっとおまえを抱かないまま、知らぬまま、求める想いだけで満ちていたい。
 満月の次の夜から、月は欠けていく。その一つ前の夜のままがいい。
 俺は自分が、おまえに飽きてしまうような男だと知りたくない。
 おまえの知らぬ前に汚れてしまったことを知られたくない。
 俺はそれが怖くて、悔しかった。あの頃は――二人とも真っ白な魂だったのに。
「……このままでいられるのかな」
 眠るおまえをこの腕に抱いていると、俺は救われたような気がした。淡い光を受ける滑らかな額はあの頃のまま、真っ白く俺の唇を受け止めてくれる。愛おしかった。どれだけ触れても触れ足りないと思えた。もっとおまえを知りたい。もっとおまえに、俺を知ってほしい。もう離さない。俺はおまえを一人にしない。だからおまえも、二度と俺を置いてどこかへ行かないでくれ。
 なあ、このままずっと二人でいよう。肉体が滅び魂が朽ち果てたとしても、きっとまた巡り合おう。そのとき俺がおまえにどんなに憎まれたとしても、おまえのことを諦めたりはしない。俺がおまえをどんなに嫌ったとしても、おまえはきっと、俺に笑いかけるだろう。馬鹿みたいな、笑い飛ばせそうなただの願望。こんな考えが浮かぶほど、おまえは俺にとって特別なんだと思う。幼馴染で、喧嘩相手で、自分のすべてをくれても惜しくない。おまえが望むならきっと俺は、この命だって明け渡す――いらないと顔をしかめるだろうけど。
 おまえを想うこの感情をなんと言い表していいのかわからない。どんなに言葉を尽くしても何も伝わらない。だから俺は、ぬくもりをかき抱いた。おまえの体は月の光のように、どこまでも清らかであたたかい。眠りに落ちる間際、白い炎が俺を包み込む、そんな幻を見た気がした。




9 晴信(逆ナン)

 車を使うときは俺があいつの家まで迎えに行くが、そうでないときはどこかで待ち合わせをすることがほとんどで、その日もそうだった。人でごった返した休日午前中の駅構内からは出て、ロータリー前のベンチで待つ。使う路線が違う以上到着時刻がそれぞれ違うのは当然で、今日はたまたま俺の方が早く着いただけ。
 逆ナンされたのはそのせいとは言わないが、しかし到着するのがもう少し遅かったら、こんな妙なことにはならなかったとは思う。
 随分年下の女子が声をかけてきたとき、最初は純粋に道を尋ねられたのかと勘違いして丁寧に接した。それがどうして、いつの間にかベンチに隣り合って腰掛け――しかも距離が異様に近い――薄気味悪い熱の篭った視線で連絡先を乞われている。面倒だな、と、顔を上げると、駅の出口、丁度俺から十数メートル先にあいつの姿が見えた。
 まずい。
 別にやましいところなど一つもないのにそう思ってしまうのは何故なのだろう。景虎は女に言い寄られている俺を見て憤怒の形相をするでもなく、悲哀で顔を伏せるでもなく、なぜかニコニコと笑ったままそこで立ち止まって俺を見守り始めた。
 いや、なんでだよ。
 俺の女に手を出すな、ではないが、多少気をもんで駆け寄るくらいしてくれてもいいのでは? 俺のことどうでもいいのか? と、落胆しながら俺なりにあいつの心理を推測してみる。どこか思考が世間ずれしているあいつならこの場合――
 多分、俺が知り合いと話し込んでいるので邪魔しないよう気を遣っているつもりだ。
 そうに違いない。冗談ではない。今だけは空気を読まずにこの状況を破壊してほしい。必死で手招きしたのが伝わって、景虎は不思議そうな顔をしてこちらに近寄ってくる。
「おはようございます晴信、こちらの方は?」
 ベンチの前に到達した景虎の顔には悪意など一切なく、「知り合いなら紹介して然るべし」という社会人の礼節が浮かんでいる。やっぱり思った通りだったので、こんなことは自ら宣言するものでもないと感じつつ、しかし言わなければこいつはわからないだろうから、しぶしぶ「知り合いじゃない。俺は今逆ナンされてるんだよ」と訴えると、「え⁉」と心底驚いたように目と口を開いて、挙句――
「あまりにかわいらしいから妹さんかと思いました」
 と、これまた悪意の感じられない表情で、ごめんなさいねと年下の少女に向かって笑いかける始末。まるで歯牙にもかけないような年上の余裕……というか彼女からしたら嫌味だろう……を見せられたのが屈辱だったらしく、短いスカートの裾を不機嫌そうに翻してその女は去っていった。別に景虎は嫌味や皮肉を言ったわけではない、というのがまた不憫なところではある。
「おまえ時々とんでもないよな……」
 他意のない発言に少し言いたくなったのは別にあの子に肩入れしているわけではなく、
「なんです? やきもち焼いてほしかったんですか?」
 それが図星だったから、なのかもしれない。




10 景虎(ナンパ) 

 多分私はそういう方面に疎く、そして鈍いらしい。いや、より正しく言うと、どうでもいい相手から向けられる好意に対して関心がなく、そして鈍感なようだ。
 その日は仕事上がりに食事でも、ということで、最近見つけたとても雰囲気のいいバールに二人で行く予定だった。珍しく私の方が早上がりで、晴信は急な仕事のトラブル対応で少し遅れるからと私一人でカウンターに座っている。ちょっとだけ気が引けたけど、まあ晴信は許してくれるだろう、と思って先にグラスを傾けていると、見知らぬ男性が私の隣に座って来た。
 見知らぬ……多分、見知らぬ人。もしかしたら前職のときの知り合いだろうか?という疑念を払拭できず、必死に思い出そうとしながらなんとなく話をする。こちらから「どなたですか?」と聞くのも憚られるし、まあ晴信が来るまで暇なのは事実だし、それまで他愛無い世間話程度であれば別に嫌ではなかった。
 ちょっと物理的な距離が近いようにも思ったけれど、これまででも特段この人だけがそうだったわけではないし、世の中にはパーソナルスペースが狭い人もたくさんいる。気にはなるけど目くじらを立てるようなことではないと言い聞かせて二十分ほど経っただろうか。入口のベルがカランと鳴って、入って来たのは晴信だった。
「あ、晴信――」
 目が合った瞬間、ピリッとした緊張が伝わってくる。あれ?と感じたときにはすでに晴信は店員にも目をくれず、大きな歩幅でこちらにずかずかと歩いてきた。
「待たせて悪かった」
 言いながら、晴信は私の肩を抱くように手を回す。いつもよりもずっと力のこもった手のひらに驚き、動揺し、少し心が沸き立つ。もちろんこんな、人前で戯れるようなことは気恥ずかしいしちょっとみっともない気がして、私は晴信を見上げる。やんわりと制止しようと思っていたけれど、私ではなく男性に向けられた顔がどこか殺気立っているのを目の当たりにして言葉が引っ込んでしまった。
 ……やきもち?
 薄々そうだろうかとは思っていたけれど、晴信の態度で確信した。私はナンパされていたのかもしれない。男性を視線だけで追い払った晴信は、「おまえに怒ってるわけじゃないからな」と釘を刺しつつ腰を下ろした。
「おまえ一人で行かせるんじゃなかった。嫌だっただろ……遅れて悪かった」
 本心から申し訳なさそうに眉を下げているので、私は首を横に振って、隣に座る晴信の肩に頭を預けて凭れる。人前でこんなことをするのは感心しないことだろうけど、晴信の熱や香りを近くに感じられて心が落ち着く。無意識に記憶を上書きしようとしている私を晴信もきっとわかっていて、何も言わなかった。ためらいがちに背に触れる大きな手のひらは、きっとここに誰もいなければ、私を抱きしめていたに違いない。
 静かな喧騒は遠く、夜はただ更けていくばかり。




11 綾御前

 妹が死んだ。
 外出先で倒れて、そのまま帰らぬ人となった。
 搬送先の病院で生まれた娘――私にとっての姪――は、まるであの子の命と引き換えに生まれたかのように、瓜二つだった。
 妹が生まれたときのことは今でも覚えている。そっと抱きかかえたことも、じっと見つめられて居心地が悪かったことも、今でも思い出せる。
 かわいかった。本当に、かわいい妹だった。姉としてこの子を可愛がろうと強く思った。
 それなのに――
 私は、私たちは、あの子のことがわからなくなっていた。賢く、どこか年齢以上に大人びた妹には友人が少ないようだった。仕方ないと思う。落ち着いた言動はいつしか近寄りがたさと、こちらの思考や腹の内がすべて暴かれるような本能的な恐怖を与えるものに変わっていった。血を分けたきょうだいでさえそう感じていたのだから、赤の他人にとっては猶の事だったろう。
 けれど妹は、どこか人間離れしているとすら思わせるほどだった妹は、決して他人を不要と感じていたわけでも、拒絶していたのでもなかったのだろう。私たちはあの子を扱い兼ねていただけで、疎ましく感じていたわけではなかった。けれど言葉にしない想いなど伝わるはずもなく、妹は家を出て、それきりになってしまった。兄が死んでも帰らなかった。私が追い出したようなものだった。
 それをずっと、後悔していた。

 真っ白い顔で何も言わない妹の代わりに、彼女が産んだ命を抱いている。喪主である義弟は、ひっきりなしに訪れる弔問客に、幽鬼のような表情で応対していた。
 一体どれほど――どれほどの結びつきが二人の間にあったのか、その表情だけで理解できた。
 涙が溢れた。けれど、悲しいわけではなかった。
 あの子は、妹は、一人ではなかった。きょうだいですら諦めたことを、あの人は成し遂げた。
 ありがとう。妹に手を差し伸べてくれて、ありがとう。あの子を理解してくれて、添い遂げてくれて、本当にありがとう。それがどれだけ短い時間であっても、きっと妹は幸せだった。
 幸せだったのに――
(馬鹿よ、あんたは、こんな人を置いて、こんなにかわいい子を遺して――)
 嗚咽を堪えて背を丸める。そっくりの命がここにあるのに、馬鹿な妹はもういない。最後に一度会いに来ただけで、ちゃんと二人そろって挨拶もしないまま、子が生まれたら見せにくるからという約束も果たさないまま。
 声にならない悔恨で震える背中に、あたたかい何かが触れる。ふと顔を上げてもそこには何もなく、誰もいない。けれど、

――ごめんね、おねえちゃん。

 そんな声が、不意に聞こえた。遠い昔によく聞いた、舌足らずの愛らしい声だった。





12 晴信

 昨日、一周忌を迎えた。娘は一歳になって、俺の体重は減ったまま戻らない。
 この一年、ずっと考えていることがあった。妊娠さえしていなければあいつは死なずに済んだのではないか、あいつは「自分は助からなくてもいいからこの子だけでも」なんて思わなかったんじゃないか、この子がいなければ医者はあいつの救命を優先できたのではないかーーちがう、そんなことは考えてはいけない、この子に罪はない、罪があるとすればそれは。
 子どもが欲しいなんて、願わなければよかったのではないか。
 欲望のままにあいつに甘えた俺のせいじゃないのか。

 俺が、あいつを殺したんじゃないのか。

 どこからか黒い靄のようなものが集まってきて、俺の視界を狭めていく。あどけない寝息を立てる小さな命が見えない、見えない、見えなくても、いいのでは?

「こらーーーっ!! 晴信をいじめるな!!」

 懐かしい声だった。小さな白い影が、長い棒のようなものを振り回しながら俺の前に現れる。子供のように小さな体からは想像もつかないほどの手さばきで得物を振り回し、それは俺の周りの黒い靄を振り払った。
「いじめられてねぇよ」
 いつかそんなことを言ったような気もするし、俺の勘違いのような気もする。なにもかもがあやふやで、だけどおまえの笑顔だけがはっきりと目にまぶしい。
「いいえ、いじめてますよ、自分で自分をいじめるなんて貴方らしくない。そんな姿は見たくありません」
 そう言われても、考えてしまうものは仕方がない。それは俺だけでなく、景虎もまたよく理解しているらしかった。ふっと脱力したような笑みが腕を伸ばし、小さな手のひらに頭を抱かれる。言葉はなく、ぬくもりも感じられない。それでも俺の中で滞っていたものが、余さず清められたように思われた。慰められるわけでもなく、励まされるわけでもなく、相変わらずあいつは、何がしたいのかよくわからない。しいて言うなら信用の念押しのような、そう、挑発めいた抱擁だった。

 白い光が瞼をこじあけ、セミの鳴き声が意識を覚醒させる。いつの間にかベッドの上で朝を迎えていたらしい。
 娘はまだ夢の中で、小さな寝息を立てている。小さな頭をなでると、柔らかい髪の感触が懐かしかった。この先、何があっても守ろう。あらゆるすべてからこの子を、あいつがたった一つ遺した命を守ろう。どうしてそう思えたのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、何かとても安らげる夢を見たような、余韻だけが残っている。

13 晴信(巫山の雨after その2)

 なまじ知ってしまった後のほうがつらい、というのはあるかもしれない。
 知らぬままのころはこの衝動を何も考えずにただ抑え込めればそれでよかったが、一度情欲に応えたあの姿を知った今は違う。もう一度、いや、もっと――そう求めてしまうのは俺だけだろうかという不安と、おまえも少しくらいは同じ気持ちではないだろうかという期待と、もしかしたらもう二度とあんなことはしたくないと思っているのでは、という恐怖。
 そういう感情やら懸念やらがぐちゃぐちゃになって、俺は結局何も言えず、何もできない。
 景虎は、これまでどおりだった。淡白という言葉がこれ以上ないくらい似合う顔で、相変わらずの清廉な態度。そういう意味ではないにしても、スキンシップのようなものが増えるのでは、という期待も裏切られたまま。だからといって俺のほうからべたべたひっついていくようなことはしなかった。自分らしからぬ挙動だと思うし、もし嫌がられたらと思うと苦しくなる。一緒に暮らそうとは言われたものの、あいつのことだから言葉以上の意味は考えていないに違いない。
 そのうち、なんで俺だけがこんなに悶々としなければならないのかと若干腹が立ってきたのだが――だからといって不満をぶつけることもできず、ただ日々は過ぎていく。

「今日、晴信の家に行ってはダメですか?」
 日も沈んでしまった夕刻、食事を済ませたレストランから出て三歩。あまりに唐突だったので、「何しに?」と間抜けな返事が口から飛び出しそうになる。これが文字や音だけの情報ならそうしてしまったかもしれないが、俺の指を捉えた景虎の顔は明らかに恥じらいに染まっていて――だから急に、ほっとしてしまった。
「――ダメじゃない」
 むしろ大歓迎。景虎の手を繋ぎなおして、決して解けぬように指を絡める。
「――よかった。晴信はもう……しなくてもいいのかと思ってました」
 ほっとしたような声に全力で抗議したくなる。そんなことはない、あるはずない。それどころか、おまえに呆れられるんじゃないかと及び腰になる程度にはその気に満ちている。
「そんなわけ、ないだろう」
 みっともない本音を抑えつつ、精一杯の理性を総動員。家まで電車と徒歩で三十分、なんともどかしい待ち時間だろうか。と、焦れている俺に残酷な一言。
「じゃあ着替えをとってきますから、いったんうちに帰りますね」
「えっ」
 さらにお預けの時間が長くなるじゃないか。着替え? いる?
「着替えならこの前のパジャマがあるだろ」
「あれは大きすぎますし、第一下着がありません」
「夜のうちに洗濯機に突っ込んどきゃ朝には乾くだろ」
「それじゃ寝てるとき穿くものがないでしょ?」
「いいだろ別にそんな……」
「よくありません」
 食い下がってはみたものの、返事はにべもない。おとなしく言うことを聞くしかないのかと落胆していると、景虎はあきれたように笑った。
「そんなにあの、パジャマの上だけが好きなんですか?」
 そりゃ、好きか嫌いかで言うと好きだが、俺がしょげているのはそんなことじゃない。早くおまえを抱きたいという欲求、それは当たっているが少し違う。おまえも俺を再び求めてくれたうれしさを一刻も早く噛みしめたい――言葉を変えただけで同じようなものだと思えたので、結局俺は何も言わなかった。その代わり、「じゃあ俺がおまえの家に泊まる」と言ってみると、景虎は口を開けて唖然としている。
「だめです」
 そしてつれない拒絶の一言。考えてみれば俺はまだ景虎の住む家に足を踏み入れたことがない。
「なんでだよ」
 さては汚部屋の住人か?という俺の勘繰りは当たっているのかいないのか。
「狭いから……ベッド……」
 この後のことを暗示させる台詞のせいで、俺はもう何も、手につかない。

14 晴信
 来たところで別に面白くもなんともないですよ、と釘を刺す景虎の家は、確かに思ったよりも物が少なく、やや殺風景な印象だった。家具も家電も最低限の種類しかないが、洗濯機だけは高性能のドラム式だった。おそらく外出前に放り込んで、帰宅したら乾いたものを身に着けているに違いない。仕事が忙しく、ほとんど寝るために帰るだけの家ならばそれも仕方がないだろう。
 とはいえ、調理器具と呼べるものがまったく存在しないのはさすがに驚いた。それなりに広いキッチンには、不似合いなほど小さな冷蔵庫と電子レンジが一つずつ。食器棚どころか食器もグラスとマグカップくらいのもので、毎日何を食べて生活しているのか――と、目を泳がせた俺が見つけたのは、ペットボトル飲料の段ボールと並んだ、カップラーメンの大きな箱だった。
「おまえ毎日これ食べてるのか?」
 健康がどうとか以前に、飽きたりしないのだろうか? という疑問をぶつけると、不名誉とでも感じたのか、憤然とした顔に睨まれる。
「失礼な。これは非常食です。普段は外食かテイクアウトです」
 まあ忙しい人間だからそれも当然だろう。朝は飲み物だけ、昼は社食、夜は帰宅途中に食べるか買って帰るか――それが景虎の食生活だった。
「……自炊はしないってことか」
 何の気なしに漏らした感想が、景虎の機嫌を損ねたらしい。
「本当に失礼ですね、料理くらい私だってできます、します」
 と、胸を張って主張するのだが、まな板も包丁もないのに何を作ると言うのか。疑わしい目を向けていると、景虎は人差し指を立てて語り始めた。
「マグカップに卵を割って、溶きます」
 料理の手順を説明しているらしい。マグカップに卵? そういえば実家の妹がマグカップでカップケーキのようなものを作っていたような記憶がある。なるほど、それなら確かに包丁もまな板も不要だ。そりゃそうだろう、いくらなんでも景虎だってそのくらいはできるはずだ。いや、しかし、それができるなら朝食にすればいいのになぜしない?
 ひっかかった俺は、我ながら鋭かったと思う。
「そこにカップラーメンを食べたあとのスープを入れてよく混ぜて、レンジでチンしたら茶碗蒸しの完成です」
「…………」
 それは料理なのだろうか――という疑問は口には出さなかった。「そうか」と一言返すにとどめて、この話題は切り上げることにした。

 数日後、なんとなくその話を思い出して作ってみた茶碗蒸し(蒸してないのでは?)は、思ったよりもずっと、美味かった。
 美味かったのだが、あいつ塩分摂りすぎだろう……。
 俺の中でまた、同棲を急がねばなるまいという意思が固まる出来事だった。

15 モブ女子
 同僚とは仲がいいわけでもなく、悪いわけでもない。彼女は、人当たりはいいけれど良くも悪くも淡白で、プライベートのことなんてほとんど知らない。たまたま部署が同じで歳が近くて同性。たったそれだけの共通点だけど、時折私と彼女は昼食を共にするくらいの付き合いはあった。

「やっぱり、料理もできたほうがいいんでしょうか?」
 とある夏の日。運よく入れたオープン直後の食堂、入社後初めてありつけた、一日限定二十食のスペシャルランチに向かってスマホを構えていた私は、同じくスペシャルランチを前に浮かない顔をしている彼女に、そんなことを尋ねられる。話に脈絡がなさすぎて前後の文脈を問いただすとつまり――先日恋人に、自分が料理をしないことを呆れられた(ように見えた)のだと言う。
 彼女の恋人のことは知っている。それはもうよく知っている、いや、知っていた。もう過去形。それはさておき、女が料理ができたほうがいいというのは、今時流行らないと思う。そう答えると彼女は「それはもっともなこと」と同意している。合理的思考の彼女は、一応そういう結論は出しているに違いない。違いないけれど……そんな考えすら揺らがせるほどに、彼に夢中になってしまったのだろうか。
「やっぱり本人に聞いてみたほうがいいでしょうか?」
 合理主義は効率主義でもある。それは何をおいても確実な手段だとは思うけれど、果たして彼のほうが答えるものだろうか? 「はい」にしろ「いいえ」にしろ、どちらも答えづらいような気がするけれど……。
 私が言いよどんでいると、彼女は背後に目当ての姿を見つけたらしい。花がほころんだような笑顔で手を振ると、彼のほうも当たり前のような顔をして我々のテーブルに近づいてくる。
「お、限定食ってるのか」
 と、うらやましそうな顔で彼女の隣に腰を下ろした彼も、
「私、料理できたほうがいいですか?」
 などと聞かれるとは思っていなかったに違いない。文脈を無視した問いかけにぽかんとしている。なぜか視線で「どういう流れだ?」と助けを求められるが、あいにく私はそんなに優しくないので「さあ?」と笑顔で肩をすくめるだけ。孤立無援の彼は少し困った顔だった。
「そりゃできたほうがいいだろうけど……」
 と、当たり障りのない返事にとどめているので、同僚は不服そうに口を尖らせている。あらかわいい。こんな顔もするのか……と、なんだか見てはいけないものでも見てしまった気分になる。
 もだもだしている二人がなんだかじれったくて、私はつい助け舟を出してしまった。
「できたほうがいいんじゃないですか? 彼女の手料理とか、男の人って好きですもんね~」
「そうなんですか?」
 食いつきが良い。前のめりの彼女と対照的に、彼は気まずそうに背をそらしている。
「……まあ、食えるなら、食いたい」
 なんとも歯切れが悪い。そこは「食いたい、おまえの作った手料理なら何でも食べたい」くらい言うべきでは……と、私は呆れてしまったけれど、彼女にとってはそうではなかったらしい。なぜかやる気に満ち溢れた笑顔を浮かべて、「じゃあ頑張ってみます」と握りこぶしを作っている。
「頑張るったって、おまえんち包丁もまな板もないだろ」
 ないんだ。ていうか知ってるんだ。家行ったんだ。
「そんなの買えばいいじゃないですか。ねえ、この前行ったお店にまた行きましょうよ」
 あっその店知ってる。高いけどいい道具そろってるんだよね。結構こだわりあるのか。
「おまえ道具があればどうとでもなるとか思ってないか?」
「えっ貴方が教えてくれるんじゃないんですか?」
 この自信。疑いなど一切ない目。それを「わかったわかった」とあしらう視線のやさしさ。
「はぁ……なんていうか」
 呆れた私を二人がきょとんとした顔で見つめている。楽しみにしていたはずの限定ランチなのに、なんだか箸が進まないのはこの二人のせいに違いない。
(ごちそうさまでした)

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