⚠広義のマクムン(マクマーン×ムンベイ)
⚠名有りモブがほぼ主人公
⚠ゾイドアニメ無印の数十年後が舞台
⚠死ネタ
少女は走っていた。自分を捕らえていた人身売買のブローカーたちが酔いつぶれている隙に野宿のテントを抜け出し、方角もわからぬ深い森の中を駆ける。
どこへ行けば助かるという保障があるわけでもない。野生の動物か何かに襲われて、自分の運命が破綻する時が早まるだけかもしれない。しかし少女は走った。息が続かなくなっても、足がもつれても、走ることをやめなかった。
そのうち獣道が開けてきて、轍がうっすらと刻まれた地面にたどり着く。人里が近いのかもしれないと思い、少女は声を張り上げようと試みた。
「た――」
助けてください、と叫ぼうとしたのに、声はかすれたまま吐息となってでていくばかりだった。立ち止まった焦燥の彼女に追い討ちをかけるように、背後から轟音が迫る。木をなぎ倒す音、おそらく、いや、それは確実に、連中のゾイドが追いかけてきている音だ。
少女は青ざめる。しかし再び走り出すにはあまりにも体力は欠乏していた。ふらついた、としか言いようのない足取りで彼女は絶望に囚われる。
これで自分の運命は定まってしまう。つかまって、そしてどこへ売り飛ばされるのだろうか。昨夜の連中の話から察するに、“そういう商売”の店か、それともどこかの貴族の妾か。
考えるほどに惨めで情けなくて、少女の目から涙が溢れた。もう泣くほども残っていないと思っていた涙が次から次に溢れるのが、我ながら不思議だった。
手械で括られた両手で涙を拭おうとすると、バランスを崩してその場に倒れこんでしまった。もう、これで終わりだ。覚悟を決めようとした彼女は、しかし雑木林の中から現れた人影に一瞬我を忘れてしまう。
「おや……」
それは初老の男性だった。品のいい身なりと柔和そうな表情、双眼鏡を首から下げた姿からは敵意など微塵も感じさせない。貴族とは言わずとも有産階級に間違いない彼にとって、手械をはめられた小汚い少女など見るに堪えないものに違いない。
しかし彼は、わざわざ片膝を地面につき、まごうことなき紳士の所作をもって彼女にその手を伸べた。
「どうしたのかな、お嬢さん?」
§
レブラプターが二機、ヘルディガンナーが一機、そしてコマンドウルフが一機。いずれも軍の正式仕様ではない。到底民間登録に通りそうにない重武装のそれらは、木々をなぎ倒しつつ森を進撃していった。
「あのガキどこ行きやがった」
コマンドウルフの男が毒づくと、彼の眼前のモニターの中でレブラプターの男が体をびくつかせた。昨夜自分が見張りをしていたときに、少女は囲いから脱した。うっかり寝入ってしまい、見逃した責任はどうあってもとれそうにない。自信の先行きに絶望したような態度が余計に気に触ったのか、男――窃盗団の首領である――は舌打ちする。
「見張りもできねぇヤツはうちにゃあいらねぇ。わかってんだろな」
「う、うす……」
仲間の下卑た笑いが萎縮した男に向けられる。余裕綽綽といった表情が示すとおり、彼らはあっという間に小さな足跡を見つけた。型落ちではあるが帝国軍正式の熱源センサーがヘルディガンナーには搭載されている。少女の姿は見えないが、近くにいることは間違いないだろう。
「近いな……。おい、大事な売り物だ、無傷で確保しろ」
「了解」
「りょーかい」
「りょ……あ?」
「どうした」
首領の男が、ヘルディガンナーの男の呟きに反応する。
「いえ、熱源が二人分……」
「何?」
言うや否やモニターが全面砂嵐と変わった。その原因がどこからか飛んできた砲弾のせいだと理解するまで、彼らは数秒の時間を要した。
「なんだ!」
「よ、横からダークホーンが!」
泣き叫ぶような部下の声に辺りを見回すと、ガトリングを二門ずつ搭載したダークホーンがこちらに狙いを定めていた。その数、十では収まらない。
こんなところに帝国軍がいるわけがない。ここはただの森林にすぎず、当たり前だが軍事基地ではない。軍や国家がこの辺りで極秘の活動をしているなどと聞いたことも無い。ほとんど恐慌状態に陥った彼らは、逃げ出すことも反撃することもできずにいた。
「おかしらぁ」
「情けねぇ声出してんじゃねえ!」
そう叱責するもののこの構成では勝ち目などないに等しかった。
少女を逃がしてしまった男は己の運命を呪いつつこう思う。ああ、やはり人身売買なんて前時代的なことに手を染めるのではなかった――と。
§
「彼らは帝国軍に捕縛されたそうだ」
受話器を置きつつそう言う老紳士のにこやかな笑みを見ても、少女の顔はこわばったままだった。
自分を助けてくれた紳士に招き入れられたのは森の中には似つかわしくないほどの豪邸だった。
おそらく使用人と思しき格好の老婦人に風呂の中に追いやられ着替えさせられ温かい飲み物を提供され、少女の頭は半分混乱、半分安堵に支配されていた。
古いとは言え彼女が持っていたどの衣類よりも上等のワンピースを身にまとい、彼女は応接室のような部屋で縮こまっている。硬い表情に何を見たのか、老紳士は痛ましそうに片手を顎に添えた。
「しかし……今時借金のかたに娘を売り飛ばされるなんてね……」
眉を寄せる主人に同感したのだろう、使用人の老婦人が何度も頷いた。
「おっしゃるとおりです。あたしも娘と息子がいますけどね、そんなことする人間は親なんていえませんよ。大体、人間とも思えないってもんです」
「マーサ、」
それが老婦人の名前なのだろう。紳士はたしなめるように言葉を続けた。
「どんな人であれ、彼女にとっては家族なんだ。そういう言い方はいけない。君の気持ちもわからないでもないけれどね」
「……そうですわね。申し訳ございません」
少女の目に再び涙がこみ上げてきた。こんな仕打ちをされてまで父親を憎みきれなかった理由を紳士に言い当てられたような気がして、そして、自分のその感情にはどこも間違ったところが無いと言われた気がして。
「あら、あら。よっぽど怖かったんでしょうねぇ」
マーサがハンカチで少女の涙を拭ってやる。レースで縁取りされたハンカチの持ち主にしては乱暴なように思えたが、少女にはそれすら暖かく、嬉しかった。
「君、名前を尋ねてもいいかな。……ああ、わたしはマクマーンと言うんだけれど」
そう名乗った老紳士は、陽の光を受けてとても優しく見えた。笑みを浮かべる口元から覗いた歯が光ったような気がしたのだが、それすら自然に見えるくらいに、彼のまわりは静かな光に満ちていた。
「――わたし、エリスって言います。あの……助けてくださって、ありがとうございました」
マクマーンはにっこりと微笑む。
「いいさ。この辺りはああいう連中がけっこうやってくるんだ」
「旦那様はいつも人助けをされるんですよ」
「おかげで帝国軍に感謝状をもらったこともあるくらいさ」
冗談交じりの台詞に笑いながら、知りもしないくせにマクマーンはそういう人物なのだろうと、エリスは思った。裕福な身の上であるから、だけでなく、きっと彼は人助けすることが喜びなのだろうと、生意気にもそう感じたのだった。
「ところでエリス、このあとどうするつもりかな」
「……」
戸惑った理由は、まさか助けておいて妾か何かにするつもりではないのかと疑ってしまったからだった。到底そういうことをしそうな人とは思えないのだが、わが身に降りかかった出来事が出来事だったので、エリスは身構えてしまう。もちろんそれは、杞憂に過ぎなかった。
「いやなに、実は彼女――マーサがそろそろ隠居したいというものだからね。もし行くところがないのならうちで働かないかと、そう思ってね」
「まあ! それはいいお考えです!」
曰く、マーサは最近生まれた孫の面倒を見たくてしょうがないらしい。国境近くの小さな町に暮らす息子夫婦が同居しないかと誘ってくれているし、すぐにでも行きたいのだが、と、彼女は数日前から打診していた。
「わたしが、ですか」
それはエリスにとってもありがたい申し出だった。父のいる村には戻れないし、かといって無一文で学も無く、農作業の他には仕事もできない自分はどこへ行っても野垂れ死にするしかないのではと危惧していたからだ。
「難しいことなんかありませんよ、それにあたしがばっちり、仕事を教えてあげますからね!」
マーサはすっかりその気になっているらしい。
エリスは逡巡した。というよりは臆していた。自分に、こんな立派な邸で働くことなど勤まるのだろうかと。
たしかにマクマーンは優しそうだし、住み込みできる働き口などそうそうない。
迷う余裕などなかった。ここ以外に、自分がいける場所などないのだから。エリスは決心し、勢いよく頭を下げた。
「よ、よろしくおねがいします!」
§
それから一週間。
「ああ、そっちじゃないのよ。これはね……あらやだ、まーた故障かしら」
エリスは紺色のワンピースと白いエプロンに身を包み、生まれて初めての「仕事」に四苦八苦していた。掃除・洗濯、簡単な料理であれば彼女もできないことはないのだが、いかんせんこの邸は広すぎる上に調度品は高価なものばかりでエリスを戸惑わせる。
今もエリスは見たことも無い掃除用具らしき機械の使い方を教わっている最中だ。
「これ、なんなんですか?」
「旦那様のお知り合いからいただいた掃除用の機械よ。こうやって、スイッチを入れたら動くはずなんだけど……。はぁ。随分前にもらったものだからもう駄目なのかしらねぇ」
マーサはそう言うと諦めたのだろう。モップを二本持って来て、エリスに一本を差し出しつつ笑った。
「やっぱり体を動かしてこそね」
広い邸内をモップがけしながら、マーサは色々なことを教えてくれた。
一日の仕事内容、お客様を迎えるときのマナー、何かあったときの連絡先。あまりにも膨大すぎてエリスの頭は半分も覚えられそうにない。こんな状態で使用人が務まるのかと不安で仕方がなかったが、書斎に飾られた写真の群れの前で聞いた話は忘れられそうになかった。
「あっ……この人、先代の皇帝陛下……」
今よりもずっと若いマクマーンの横で、同じくエリスが知っているよりもずっと若い、青年時代のツェッペリン三世が笑っていた。名君と仰がれた彼は惜しまれつつも二年前に退位し、今は皇后と共に悠々と暮らしているらしい。おそらく若い頃から聡明だったに違いない顔立ちに、エリスはマーサに問うた。
「旦那様は陛下ともお知り合いなのですか?」
「そうですとも。あなたは生まれていなかったから知らないだろうけど、昔陛下が大変だったときに、旦那様がお助けになったんですよ」
マクマーンは貿易商として身を立て、いまや世界中に手を伸ばす会社の創設者として名高い。ここ数日で、そのくらいはエリスの知るところとなっていたのだが、まさか皇帝とも交友を結んでいるとは思わなかった。
自分が仕えようとしている人は、とんでもない人なのかもしれない。
人助け好きな主だということは十分すぎるほど知っているので半分くらいは納得したのだが、もう半分くらいは畏れ多いような、自分の場違いさが恥ずかしくなるような、そんな感情だった。
「旦那様はいつだって、どんな人だって、困った方をお助けになります。あたしはその場にいませんでしたけど、きっとその時だって、相手が陛下だからお助けになったんじゃないと思いますよ」
エリスにもわかる気がした。きっとマクマーンは伸ばされた手を振りはらうことなど、できないどころか思いつきもしないに違いない。
他に飾られた写真を、エリスはしばしの間眺めていた。数人で写った集合写真、誰かの結婚式の写真、小さな子供たち、風車の並ぶ風景。エリスはふと、疑問に思う。
「旦那様は、ご結婚されていないのですか?」
彼の家族と思われるような写真が一切ないのだ。エリスの無邪気な質問にマーサは苦笑する。
「ずっとお独りでいらっしゃるのよ」
「そうなんですか……」
死別や離婚などではなく、ずっと独身だったということを聞いてますますエリスは不可解に思う。彼ほどの男性であればよりどりみどりだっただろうに。
「どうして旦那様がお独りなのか、お勤めしていればわかりますよ」
マーサはそう言い残すと、書斎の掃除を終わらせて出て行こうとした。エリスもそれに倣うのだが、後ろ髪をひかれるように今一度、書斎の中を振り返る。なぜか目についたのは、赤いドレスを着た女性の写真だった。
§
穏やかな午後、エリスは庭にあった。すでにこの邸で働いて一ヶ月が経つ。一日の仕事内容はすっかり覚えたし、マクマーンの食べ物の好みもわかってきた。しかし未だに、どうして彼が独身であるのかの理由はわからずじまいである。聞いてみようかと思っても聞けずじまいだったのだが、マーサは昨日をもって息子夫婦のもとへと引っ越してしまい、今は広い邸にマクマーンとエリスのみである。おそらく、二度と尋ねる機会はないだろう。
けれど、知りたいと思う心と同時に、それは知ってはならない秘密なのではないかという、直感のようなものがエリスの中にある。
(だってどう考えても、一人っきりでいなきゃいけない理由が幸せなものだとは思えないわ)
きっとマクマーンが一人でいることの裏側には、悲しみがあるに違いないとエリスは推測した。そして、人の悲しみに安易に触れることはしたくないとも思っている。
己の職の本分はわきまえているつもりであるし、人としてもしてはならないことはしたくない。それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、寂しさだけが胸にあった。
毎度のことながら、思いつめてもしょうのない考えを振り払い、彼女はポケットに忍ばせた子袋の中身を広げる。
「ほうら、ごはんですよ」
エリスが呼びかけると、軽やかなさえずりとともに小鳥たちが庭に舞い降りた。無論色とりどりの野鳥が彼女の言葉を解して舞い降りたわけでなく、エリスが手にしているパンくずにつられたからに他ならない。が、マクマーンが同じようにしているのを見ていると、どうしてもそうやって、小鳥に呼びかけてしまうのだ。
「そんなに慌てなくてもたくさんありますよ、ほらほら、取り合いしないの……」
エリスの故郷は寒村である。農業で生計を立てるほかはないのだが、痩せた土地ゆえ十分な出来高が得られるとは限らない。父もまた苦しみぬいた末に酒におぼれて借金を重ね、母は若いままに死んでしまった。エリスはこんなふうに、穏やかな心で野鳥と戯れたことなどない。こんなに手入れの行き届いた庭を見たことなどない。
おそらくこれが豊かさなのだろう、と、エリスはしみじみと感じた。それは何も物質的な豊かさではなく、エリスは今、己の心がとても満ち足りていることを知っている。
「わたしもお前達も、旦那様がいるからこんなに幸せなのね」
エリスの独り言に反応したかのように、青い鳥が首を傾げた。エリスは再び、微笑む。
マクマーンの趣味は野鳥や野の草花の観察だった。「金持ちの道楽さ」 と彼は嘯くのだが、対象を収拾したり標本にしたりせず、ただ観察するだけに留める彼はやはり、優しいのだと思う。すべてはそこにあるだけで美しく、そしてその存在は何事にも代えられないすばらしい奇跡なのだと、彼はエリスに語ってくれた。
少女にはまだその言葉の意味がよくわからなかった。ただ理解できたのは、彼の果てしのない愛情だけだった。
ふと、車の音が聞こえる。数羽の小鳥達は驚いて空へと去ってしまった。
それを追うようにエリスは顔を上げつつ不審に思う。今日は来客があるなどと聞いていない。というのも、料理人のいないこの邸に来客がある場合には、帝都あるいはどこかの街からわざわざ料理人を呼び寄せなければならないからだ。そして当分、その予定はないと聞いている。平素はエリスがマクマーンに食事を作っているのだが、客人に出せるほど豪勢なものは作れない。どうしたものかと思い悩んでいるうちに訪問者は門をくぐろうとしている。エリスは両手のパンくずをはたいて落とし、ワンピースの裾を乱さぬよう気をつけながらそちらへ急いだ。
「あら、新しく入ったメイドさん?」
珍しい色の車だった。ワインレッドと言うのだろうか、派手だが決して下品ではない。その中から出てきたのは、マクマーンよりも少し若い、初老の婦人だった。
白いものが半分ほど混じった髪は品よく複雑に結われ、おそらく南のほうの出身だと思われる色濃い肌にオレンジの長い巻きスカートがよく似合っている。朗らかで、活動的な印象を与える人物だった。
しばしその健康的な外見に意識を奪われていたエリスは、慌てて背筋を正す。
「エリスと申します、マダム」
スカートの裾をつまんで一礼すると、婦人はにっこりと微笑んだ。柔和な、暖かい笑顔だった。マーサと同じに、年を重ねた人間の暖かさを感じるし、マーサよりもずっとたくさんのことを知っているような深い思慮も見て取れた。不思議な女性だと、エリスは感じた。
「ムンベイよ。よろしくね」
あっ、と、声を上げそうになったのを堪える。なぜならば今しがた聞いた名前は、あの、赤いドレスの写真に添えられた名前と同じだったからだ。
「マクマーンはいるかしら?」
優しい眼差しにうろたえつつも言葉を捜そうとしていると、玄関のドアが開く。邸の主人が自ら迎えに上がったらしい。
「やあ、ムンベイ」
こんなことはめったに、というより、まずない。それだけ彼女が、マクマーンにとって重要な人物なのだろう。そのくらいは、エリスにも理解できた。
そしてどうやら、ムンベイの顔を見るに、彼女にとってもマクマーンは特別な存在らしい。深くなった目じりの皺が、とても美しい影を落としているのだから。
「お久しぶりねマクマーン。近くに用事があったものだから寄ったんだけど、急で悪かったかしら」
「とんでもない。僕はいつだって、君の訪問を心待ちにしているんだ」
そう言う彼の白い歯が輝く。エリスが未だに慣れないそういう台詞も身振りも、ムンベイにとってはどうやら見慣れた光景らしく、ただ一言「相変わらずね」と笑うだけだった。
庭を一望するテラスに、エリスはティーセットを運んだ。自分が作ったものなので自信は無いのだが、午前中に焼いたばかりのレモンパイが共に並んで供されている。
「ごめんなさいね、急に訪ねちゃって……あら、これ、とてもおいしいわ」
申し訳なさそうなムンベイは、しかしレモンパイを口に運ぶとにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
エリスは安堵した。もし失敗をしたら恥をかくのは自分ではなく、マクマーンなのだ。メイドになって初めて迎える客が優しい人でよかったと、エリスはほっと息を吐きたくなった。
「まだ一ヶ月ほどだけどね、どうだい、とてもいい子だろう?」
「ええ。まるであたしの若い頃にそっくりね」
「そうかい?」
「あら、違うって言うの?」
二人の間には不思議な空気がある。彼女がマクマーンにとって大切な人だということはわかるが、ムンベイの左薬指には金の指輪が輝いていた。もちろん、マクマーンは指輪などただの一つもしていない。どういうことなのだろうと思いつつ、エリスはその場で首をかしげるのを堪えていた。
「君はエリスとはまた違う魅力に溢れていたよ。いつだって美しく、溌剌としていた」
「今は?」
「今だってそうさ。君は今日も、昨日までとは違う魅力に溢れているね」
「ありがとう」
傍で聞いているエリスが赤面しそうな台詞にも、ムンベイは平然と笑いかけている。ますます謎は深まるばかりだ。結局二人はどういう関係なのだろう。唖然として立ったままの彼女に、ムンベイが苦笑した。
「あなたがそんなことばかり言うから、エリスが呆れているわよ」
「も、申し訳ありません」
これではまるで立ち聞きしていたようだと思い当たって、エリスはテラスから退出しようとする。それをマクマーンは留めた。
「ああ、ちょっと待って。まだムンベイを紹介していなかっただろう?」
エリスは振り返り、二人に向き直った。
「彼女、ムンベイはね……僕の片想いの相手だよ」
§
夕刻の森は魔物が住まう。赤く染まった空を見ていると、小さい頃に聞いた話も本当のことのように思えた。
ムンベイは二時間ほど前に帰っている。マクマーンからあんなことを聞かされても、エリスは何がなんだかわからなかった。もしかしたら、歳をとれば二人の関係についてわかるようになるのかもしれない。少なくとも、今のエリスには、どうしてマクマーンがあんなに平然として、他人を選んだムンベイと会ったりできるのかわからなかった。
「確かにムンベイはわたしを選ばなかった。それは事実だ。でも彼女は今もこうしてわたしに会いに来てくれる。それは、素晴らしいことだと思っているよ」
彼女を見送った後に、マクマーンはエリスにこう説いてくれたのだがそれでもわからない。会いに来ると言ったところで、せいぜいお茶か食事をするだけのようだし、それはずっと昔から変わっていないらしい。
この世の中にはわからないことが多すぎる。
マクマーンは、エリスの思考を察したのか肩に手を置きながら笑いかけた。
「エリス、わたしは何かを返してほしいわけではないんだよ」
それはそうなのだろう、ということは彼女にもわかる。
しかし、それで主は満足なのだろうか、とも、考えてしまう。
愛されたいと願わないのだろうか。もしも自分が同じ立場だったら、引き裂かれるような胸の痛みを堪えられる自信がない。自分がまだ二十年足らずしか生きていないせいかもしれないとは思ってみるものの、年を取ったところでマクマーンと同じ心境に至れるとは到底思えなかった。
日没の方角はすでに闇に飲み込まれている。
マクマーンの心は、このような闇を知らないのだろうか。
エリスには、わからない。
§
エリスはそれから五年、穏やかに暮らしていた。
時折マクマーンが興した会社の人間や昔の知り合いが訪れたり、逆にマクマーン自ら帝都へ芝居を観に出かけたりする。しかし年々その頻度は少なくなり、彼は杖をついて歩くようになった。食べるものの量も減って、一日中横になっていることもある。医者を呼ぼうとしてもマクマーンは拒否するので、エリスの不安は増すばかりだった。
「旦那様、ほんの少しでもいいですから、お医者様に診ていただきましょう」
「エリス、心配はいらないよ。わたしは少し疲れているだけさ」
そのくせ彼はいつの間にか弁護士を呼んで遺言状を作ってしまったらしかった。黒いスーツに身を包んだ男性が邸に出入りしているのを見ると、まるで死神に取り付かれたような気分になってしまう。
「エリス」
遠くを見ているマクマーンを、見ているのが近頃は辛い。
「はい、旦那様」
「近頃わたしはよく眠れるよ。朝もすっきり、目覚めることができるしね」
「それは……ようございました」
「……エリス」
「はい」
「――いや、今日もいい天気だね」
エリスすら薄々の予感を覚えているのだ。マクマーンが気づいていないわけがなかった。
誰も逃れることなどできないと知っていながら、いや、知っているからこそ、エリスは「運命の日」が一日でも遅く訪れることだけを祈った。彼女にできることはそれくらいであり、しかし現実は、彼女が思うほど優しくはなかった。
§
「旦那様、」
いつもの起床時間を過ぎても呼びつける声を上げなかった主に不審を抱き、エリスは寝室の前まで出向いた。目覚めがいいと言っていた主が遅くまで寝ているなどありえない。ドアをノックしても返事はなく、エリスはノブに手をかけようとして、手を引っ込める。
嫌な予感がした。ドアを開けるのが恐ろしかった。
「――旦那様!」
エリスはメイドらしからぬ粗暴さでドアを叩く。うるさいと一喝してほしかった。怒鳴って欲しかった。なのに何も聞こえない、何も起こらない。
エリスは泣き出しそうな顔でドアを開けると、マクマーンの元へと駆け寄った。
「旦那様!」
マクマーンの手をとると、かすかではあるものの脈拍はあった。よかったと安堵するが、エリスは動揺したままマクマーンに声をかけ続けるしかできない。
「旦那様、しっかりしてください!」
マクマーンには意識がないのか、エリスの呼びかけにも応じない。ようやく目を開けたかと思っても、すぐに瞼は閉ざされてしまう。
彼女は邸の中を駆けた。誰かいればはしたないと叱責されそうなくらいに、裾を乱して走った。
そして電話機の前に来ると、息も整えずにボタンを押す。コール音は何度も繰り返された。その一分一秒すら物狂おしいほどの時間に思える。ようやく繋がったかと思えばかかりつけの医者の間延びした声に苛立ちはつのる一方だった。
「もしもし、ドクター、急いで来て下さい。旦那様が、旦那様が……」
§
“ご家族を呼んで差し上げなさい。もうわたしたちにできることなど……”
神様、とエリスは口の中で呟いた。
もう彼女を包むものは絶望の他に無く、無常にも時は進むばかりだった。
医者は最期の時のために、マクマーンの家族を呼べと言う。しかし、エリスには彼の家族の心当たりなどないし、何より信じたくもない事実に動揺するばかりで何も手につかなかった。
これではいけないとわかっている。マクマーンが自分に望んでいることはおそらく、ただ泣き暮らすことではなくてきちんと仕事を全うすることに違いない。
「ごめんなさい、旦那様、ごめんなさい……」
エリスはぼろぼろと涙を零しながら、電話機の前で主に詫びた。方々へ連絡しなければならないのに、こんな状態ではそれも無理からぬこと。エリスは自分が情けなかった。恩人の最期が近づいているというのに、何もできない、何も返せない自分が恥ずかしかった。
誰か助けてと、呟きそうになって、エリスはまた涙を零す。
結局自分は最初から最後まで誰かに頼るしかできないのか、と。
けれどそれを見透かしたのか、電話越しに手は差し伸べられた。
「……っく、は、い」
――もしもし? ムンベイだけど。
その朗らかな声を聞くと、エリスは一旦堰きとめていた涙を再び溢れさせた。ただならぬ気配を察してか、ムンベイの声も少しだけ低くなった。
――エリス? どうしたの、何があったの?
「だっ……旦那様が、旦那様が……!」
――落ち着いて。マクマーンに何かあったのね?
エリスはしゃくりあげるばかりで声も上げられない。ムンベイの問いかけに頷くばかりなのだが、電話越しでは何も伝わらないに違いない。エリスだってそのくらい理解しているのだが、言葉の代わりに嗚咽が漏れるだけで、何も伝えられなかった。
――すぐにそっちへ向かうわ。
それだけ言うと、ムンベイは電話を切る。エリスはわけもわからぬままにその場に崩れ落ち、高価な絨毯に涙の染みを増やすことしかできなかった。
§
ムンベイが到着したのは翌日の早朝だった。慌ててやってきたのだろう、いつもの着飾った彼女ではなく、普段着にストールを羽織っただけのような格好だった。
隈を作ったエリスの腫れた瞼を見るや否や、察したのだろう。一旦彼女を抱きしめると、「不安だったわね」 と、ねぎらう言葉をかけてやった。
ひとしきり泣いて落ち着いたのか、エリスはそれを聞いても顔をくしゃりとさせるだけに留める。しかしその内心はムンベイの指摘どおりに不安でいっぱいのままで、今だって気を張っていなければ泣きじゃくっていたに違いなかった。
「昨夜は、奇跡的にもちこたえて、でも、ドクターが、もって今夜だって……」
覚悟はできたと思っていたはずなのに、言葉にすると悲しみ支配されてしまう。エリスの説明を聞くと、ムンベイは化粧もしないままの顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「マクマーンのところへ、案内してちょうだい?」
それは全てを受け入れるような、何もかもを覚悟したような、優しくも力強い微笑みだった。口元に寄せられた皺を見るたび、エリスはムンベイに対して深い敬意と憧れをもってしまう。老境に至った彼女は、マクマーンの言うとおりに美しい。きっと歳を重ねるほどに美しさも増すのだろう。エリスは、小さく頷くとムンベイを寝室へと案内した。
驚くほどに質素にまとめられた寝室の中に、マクマーンの横たわるベッドがあった。
傍に医師と看護師が控えているその風景は、確実に一つの生命の終わりが近づいていることを物語っていた。
「マクマーン、」
呼びかけるムンベイに、彼はゆっくりと瞼を開ける。視線もまた同じようにゆっくりと入り口のほうを向き、ややあって驚きが浮かんだ。
「やあ……驚いたな」
かすかに浮かべようとした笑みは弱弱しく、エリスはたまらなくなった。
「エリス、カーテンを」
「はい……旦那様」
細くなってしまった指先が指し示すカーテンを引くと、部屋中が真っ白な朝の光で満たされる。清浄で冷たい光だった。きっと毎朝、このように美しい光を浴びて世界は生まれ変わるのだろうと、エリスは不意にそんな考えを抱いた。そしてその美しい光を、きっと主は明日の朝、見ることができない。
ムンベイがベッドサイドの椅子に腰掛けるのを横目に見つつ、エリスは耐え切れなさそうな自己を感じてドア付近に佇んだ。医師達も察したのか、すでに席を外した後だった。
「最期に、君に会えてよかったよ」
衣擦れの音がする。今まで触れることの無かった二つの手が、触れ合っていた。
「やぁね、随分と弱気じゃない」
「自分のことくらい、わかるさ」
「……そう。そうね」
静かだった。きっと窓を開ければ彼の愛した小鳥がさえずり、彼の愛した花の香りが流れてくるのだろう。それすらもう二度と得られぬことを、二人は知っているのだろうかとエリスは疑わしく思ってしまう。そのくらいに、二人とも落ち着いていた。
「君は歳をとってもきれいだね」
「あなたも変わらないわね。光る歯はずいぶん少なくなっちゃったけど」
「ひどいなあ」
「事実じゃない」
いつもと変わらないままに会話する二人が、だからこそ悲しかった。これで、これですべてが終わってしまうなどと考えたくも無かった。
こうやって事実から目を背けようとする自分は子供なのだろうか。エリスは自問する。答えなどわからないと言い切ってしまいたかったが、そんな問いを投げかけている時点で、自分が子供でしかないことは痛感していた。
「ムンベイ、」
「なぁに」
「僕は幸せ者だったな」
「なによ藪から棒に」
「事実を言ったまでさ。僕は君と、ずっと共にあることはできなかったけれど、こうして君に見守られて、死んでいける。それが幸福だって、言っているんだ」
息を継ぎつつの言葉を言い終わると、マクマーンは大きく息を吸い込んだ。
時は、止まらない。
泣くものかと、エリスは天井を睨んだ。静かに、穏やかに、主を見送ろうと思った。
不意にエリスは五年前のことを思い出す。
――エリスはわたしと彼女のことが、気になるようだね。
――はい……あ、し、失礼しました。
――いいよ、気にしていないさ。
――ありがとうございます。
――エリス、
――はい。
――想いが必ず通じるとは限らないし、むしろ思うようにいかないことのほうが多いのだと、わたしは思う。けれどそれを恨みがましく思うことは、とても残念なことだと、わたしは思うよ。
――……。
――負け惜しみのように聞こえるかもしれないけれど、僕は彼女が幸せなだけで満たされる。そうして時々、僕に会いに来てくれるだけで、十分さ。
――……わたしはまだ、未熟みたいです。
結局あのときのエリスにはわからずじまいだったし、今も全てを理解できたとも思えない。
けれど、
「あたしも幸せだったわ。あなたとめぐり会えて、あなたに愛されて」
そう言うムンベイの言葉を聞くと、理屈ではなく、何かが氷解していくような心境になった。
「僕の想いは、迷惑じゃなかったかい?」
「そんなわけないでしょう」
小さく笑うムンベイの声は、少しも震えていなかった。
「そうか……なら、よかった……」
“すべてはそこにあるだけで美しく、そしてその存在は何事にも代えられないすばらしい奇跡なんだよ”
マクマーンのその言葉は、ムンベイのことを言っていたのかもしれないし、彼の愛した鳥や草花の自然、あるいは世界そのものに対するものかもしれない。
けれどエリスにとっての美しい存在、尊いもの、そして奇跡は、彼女の主に他ならなかった。
今、奇跡は終わる。
彼の人は静かに目を閉じ、穏やかなままに眠っていた。
ムンベイは無言だった。静かな笑みを湛えたままに彼の頬に触れ、しばしの間黙祷していた。
どれだけ時間が経ったのか。エリスはムンベイの元に歩み寄り、口を開きかける。
「旦那様を――」
何も、言葉にならなかった。
“旦那様を看取ってくださって、ありがとうございました”
それだけは伝えたいのに、何一つとて言えなかった。この上なく穏やかな主の顔を見ると、こみ上げてくる涙に勝るものは何もなかった。
たまらず彼女はその場に膝をつき、嗚咽をこらえるように両手で口を覆う。
「エリス、いいのよ」
ムンベイはそう言うと、彼女の肩に手を回して抱き寄せた。
「いいのよ……泣きなさいな」
言葉の終わりすら待ちきれず、エリスは声を上げて泣いた。どこにこんな涙が残っていたのかと、呆れるほどに泣きじゃくった。
部屋を満たしていた陽の光が、雲に遮られる。薄暗い一瞬は、しかし直後に、再び白い迎え火にはらわれた。
§
あわただしい葬儀を終えると、今度は弁護士と会社役員が極めて事務的な顔をしてやってくる。
故人に対して上辺だけの弔辞を述べる彼らにエリスは憤慨しそうになるが、最後までこの邸の使用人らしく毅然とした振る舞いをしようと心がけていた。もっとも、遺言状に目を通し、「しかし……周到な方ですなあ」などと呆れ半分にのたまう弁護士に大しては、エリスは手元のクッションを投げつけてやろうかとすら思った。しかしすんでのところで留め、それはマクマーンの敏腕を褒めているのだと解釈して気を落ち着かせる。
実際、エリスも驚くほどにマクマーンは身辺整理を済ませていた。
土地と邸は共和国のとある大学に寄贈し、生態系を研究するのに役立ててほしいと書き残しているし、自衛用のゾイドは帝国軍に引き取ってもらうための手続きがほぼ完了していた。そして遺産は一部を残して慈善事業の財団に寄付するようにと遺言状には記されている。
「わたし……こんなにもらってもいいんでしょうか……」
その“一部”の寄贈先はエリスだった。マクマーンにとっては雀の涙ほどの額だろうが、所詮は村娘でしかないエリスにとっては数年遊んで暮らせる額である。はいそうですかと受け取るには、ちょっとどころではないためらいがあった。
「いいんじゃない? 人の厚意は受け取っておくものよ」
エリスに任された事後処理を自発的に手伝うため、ムンベイは邸に滞在している。紅茶のカップを口に運びながら、彼女はエリスの背中を押した。
「それだけあればどこの大学にもいけるし、どこかに小さな家くらいは建てられるわよ。マクマーンはきっと、あなたが自立するのを願ってるはずだわ」
「……そうですね」
エリスは遺言状の写しを丁寧にたたみ、テーブルの上にそっと置いた。
「わたしは旦那様から色々なものをいただくばかりでした。お金とか、そういうものだけじゃありません。とても大切なものばかりです」
主からの最後の贈り物を、エリスは大事に使おうと心に決めた。
「あの人は……本当に、お人よしだったものね」
苦笑するムンベイを見ていると、こうして思い出を語り合える人がいることをありがたく思った。きっと自分達の胸のなかに、いつまでもマクマーンは居続ける。これもまた奇跡なのだろう。
「お優しい方ですものね」
「そうね、あたしももらってばかりで――」
ムンベイの言葉は、途切れた。
「ムンベイさん……?」
「――ごめんなさい」
マクマーンの死に際にも、葬儀の際にも涙を見せなかった彼女が、初めて泣いていた。こぼれる涙は一滴などではなく、後から後からこみ上げては頬を濡らしていく。
「いやね、ごめんなさいね。こんなおばあちゃんが泣いたりなんかして」
「ムンベイさん……」
両手で口元を覆い、ムンベイは嗚咽交じりに話し始めた。
「あのとき、本当はね、後悔しそうだったの。これでよかったのかしらって、あたしは間違ってたんじゃないかって……。あたしはいつだって、あの人の優しさに甘えてばかりだった。ひどい女よね、どうして、どうしてもっと、あの人のことをまっすぐに愛せなかったのかしら」
「そんな……」
「あたしだって、あの人からは与えられるばっかりだったわ。何一つ返せなかった、何一つできなかった。こんなこと、今言ったってしょうがないけど、でもやっぱり、どうにかできたんじゃないかって――」
眉間に皺をよせるムンベイは、己を断罪しているのだろうか。すれ違いとすら呼べない心の交差は、見ているだけで辛かった。
エリスは自分のハンカチを差し出し、首を横に振る。
「そんなことない、そんなことないです。旦那様はいつかわたしに、仰ったんです。何か返して欲しくてこんなことをしてるわけじゃないって。旦那様は本当に、ごく自然に、いろいろなものをわけてくださいました。それに、旦那様は、いつだって、ムンベイさんのことを話すときは、一番幸せそうでした」
数日前に止んだと思っていたのに、また体の中心が震え始めた。涙は止められない。
「エリス、」
「旦那様は嘘なんか仰いません、ムンベイさんが来てくれるだけで幸せだって、そこにいてくれるだけでいいんだって。それに、旦那様はムンベイさんのことになると、ご自分のこと、“僕”って仰って、それで――」
自分が言っていることが支離滅裂だとわかっている。それでもムンベイに何かを伝えずにはいられなかった。その伝えんとすることもわからぬまま。
多分、大切なことはムンベイだって知っているのだろうとエリスは思う。こんなにも長い間親交の途絶えなかった二人の間に、特別な感情がなかったわけがないのだ。ムンベイはわかっている。エリスはその感情に、もっと自信をもって欲しかった。それが何であれ、すばらしいものであると訴えたかったのだ。
「エリス……」
「だから……そんな悲しいこと言わないでください……」
その感情は、言葉になどできるものではないと思う。しかし、言葉で表せないものが存在しないと断じられるのは不本意だった。
ムンベイはマクマーンのために、普段着のまま化粧もせず、駆けつけてくれた。たとえそれが愛であると誰にも認められなくとも、そこにあるだけで尊く、美しい存在はたしかに、この世にあり続けるに違いなかった。
深い愛を残して逝ってしまった彼を思い、エリスは泣きじゃくった。ムンベイも、同じく涙を溢れさせた。
もう泣くものかと思っていたはずなのに、いつまでもいつまでも、二人の涙は涸れることをしなかった。
§
あれから数年が経った今も、エリスは時折邸を訪れる。
寄贈された先の大学は、マクマーンの遺志を慮ってか、手を加えないままに邸を残していた。定期的に研究チームがやってきては邸をベースキャンプにして調査を行っているようだが、品行方正な学生らのおかげで邸は綺麗に使用されているらしい。
最低限の手入れだけが為された庭は、時期によっては雑草も茂り放題に伸びている。かつてここで働いていた頃には考えられない光景でもあるので、少しばかり胸の奥が痛むようでもあった。
時は流れ続ける。
しかし外観が変われど、この庭はここにあり続ける。小鳥はさえずり、花は風に揺れ、そして日差しは降り注ぐ。
全てを祝福するように、いつくしむように。彼の人の愛が誰かの胸のうちで増幅し、再び分け与えられる時を待つのと同じに。
永遠に。