昼休みの食堂を訪れると、珍しく景虎が窓際の席に座っているのを見つけた。
初秋の柔らかな陽ざしを浴びながら、何か冊子のようなものを熱心に眺めている。食器の乗ったトレーはすっかり空になっていたので、早めの食事を済ませた後らしかった。
「何読んでるんだ?」
「あら晴信」
近寄って声をかけるまで景虎は俺に気づかなかった。それほど集中して読んでいるものが何なのかと思って覗き込むと、なにやら見覚えある紙面が目に入る。なんだろうか、と、注視しようとした俺を景虎は制した。
「ちょうどよかった。ここで待ってますから食事取ってきてください」
食べながらでいいので話しましょう。と、景虎は妙に上機嫌で笑っている。気がかりは残ったままだが、まあたまには二人で昼休みを過ごすのも悪くはない。俺はその言に従い、伸び始めた社食の列へ並んだ。
「なんにしました? 日替わり? わぁ、今日はチキン南蛮ですか」
戻って来た俺のトレーをのぞきこみつつ、そっちにすればよかったかも、と、景虎は惜しそうに口をとがらせた。それでも相変わらず楽しそうに笑っている。
「おまえは何食ったんだ?」
「かきあげうどんです。お口が麺の気分だったので」
「ああ、そういう日あるよな」
などと益体のない話の合間に膳を勧められ、俺は腹いっぱいだろう景虎の前でチキン南蛮の一切れにかぶりつく。その様をじっと見られているのは、なんとなくやりづらい。
「で? 話って?」
食べながら話そうと言った景虎が何も言わないので俺から水を向ける。
「ああ、これです、これ」
思い出したような顔の景虎が広げたのは先ほどまで見ていたらしい冊子の見開きだった。近隣県の観光地特集が組まれている。やっぱり見たことがある……。箸を止めてじっと考えていると急に思い出した。これは、契約しているロードサービスの会報だ。車を持っているし契約もしている俺に読んだ覚えがあるのは当然として、なぜ車を持っていない景虎がこれを持っているのだろう? という疑問は、その次の言葉に吹き飛ばされた。
「晴信、ここ行きませんか?」
ここ、と、指さされたのは温泉旅館の写真。日帰りの立ち寄り湯でもなく、まして足湯などでもない。
(……泊まり?)
顔を上げても景虎の表情はいつも通りの笑みにしか見えない。そうでなくてもこの女の本心は非常にわかりづらい。泊まりなのか、どうなのか。
泊まりだとしたら、おまえはそういうつもりなのか?
……わからん。写真に併記されている「美味しいお酒と山海の恵みに舌鼓」だと夕食付きの宿泊プランとしか思えないが、「人気の和朝食は朝食のみ利用もOK」だと早朝に出立して朝食と立ち寄り湯で日帰り利用もできなくはない。……駅からかなり遠い旅館なので、このあたりから車で行くとなると夜明け前に出立しても朝食提供時間ギリギリだろうが。
「……だめですか?」
何も言わない俺が渋っていると思ったのか、景虎はしゅんと眉を下げる。
「――いや、だめじゃない、嫌でもない。よさそうなところだな」
なんとかそう答えると途端にぱっと顔色が明るくなる。
「そうでしょう! このお料理付きのプラン、とってもいいですよね! お肉もお魚もついて豪勢ですし地酒のラインナップがまたすごいみたいですよ!」
そうかそうかと頷きつつ、俺は当惑交じりの問いを投げた。
「……ってことは、泊まりなんだな?」
念押しのように聞くと、半分はしゃいでいた景虎がぴたりと動きを止める。
「えっ。こんな素敵なところに泊まらない選択肢はないと思いますが」
なんだか若干の圧を感じる。俺は別に異論はなくて確認したかっただけだと言うと、ほのかな緊張が緩んだ。思わずほっとしてしまうが……なぜ俺だけが振り回されているのだろう。
「じゃあ決まりですね! 晴信は何日ごろなら大丈夫ですか?」
「そうだな……ちょっと待て」
ポケットからスマホを取り出して予定を確認しようとすると、
「あ、食事中でしたね、すみません。後で連絡してくれたらいいですから」
と、景虎が唐突に冷静になる。なんとなくその態度が勢いを殺すように思えて、俺は少しだけ、焦った。時間を置いた結果景虎が我に返って「やっぱり泊まりはなしです」なんて言い出したら……という懸念があったのかもしれない。
「今ここで決めちまった方が早いだろ。そうだな、早けりゃ今週末……」
結局食事を中断して予定をすり合わせた俺たちだったが、今週末を除くと向こう一か月では二人とも土日の両方が空いている日がないという有様だった。それでも行けそうな日があったのは幸いと、善は急げの景虎は食事中の俺を尻目にウェブ予約を済ませてしまった。相変わらず恐ろしい行動力だな。
「はあ……直前だったけど予約できてよかった……」
満足そうな顔を見ていると、そんなに旅行に行きたかったのかといじらしく感じられて頬が緩む。当日は何時ごろ出発しようか、なんて話をしていると、唐突に景虎が「あ」と思いだしたような声を上げた。
「あの、こういうのは予め言っておくべきことでしたけど……」
なにやら言いづらそうにもじもじしているので、「さては」と思わず身構えてしまったが、
「交通手段(足)は晴信の車で、お願いできますか……?」
でてきたのはそれだけのことだった。幾分落胆しながら、冷めかけた味噌汁を飲み干す。
「元からそのつもりだ」
長距離だろうが運転は苦にならない性分なので、任せろの一言で請け負うと景虎はほっとしたように表情を緩めた。
「よかった! ではよろしくお願いします」
言いながら頭を下げて、イベントが楽しみな子供のように笑っている。本当に子供の頃のままのようだ。酒は飲むし仕事もするし、当たり前に大人になっているはずなのに。
「あっ、じゃあ晴信、私そろそろ戻りますから」
「ああ、おつかれ」
午後一の会議の準備があるらしい景虎は、慌ただしくトレーを片付けて食堂を後にした。
残り一切れのチキン南蛮を前に俺は考え込む。そうだよ、俺たちはいい大人なんだよ。
温泉旅館に、泊まり。
はっきり言われてはいないが、つまりはそういうことだよな?
俺は期待していいし、準備をしておくべきだし、覚悟を決めろということだよな?
誰に言うでもなく頭の中でそんな自問自答を繰り返す。
いや、わかる。景虎に確認するべきだったと。しかし真っ昼間の、しかも社員食堂で、誰が聞いているかもわからないのに聞けるだろうか。
俺はその日おまえを抱いていいのか? と。
聞けるわけがない。だから聞かなかった。しかしはっきりさせるべきでは?という気がかりを残したままなのもすっきりしない。俺はその日の夜も翌日も尋ねるべきか確認するべきか悩んだ。
悩んだ結果――聞くのはやめておくことにした。
もし景虎にそういうつもりがあるのならそれでいい。だが、そうでなかった場合、自分は純粋に旅行を楽しみたいのに、俺がそういうつもりだと知った景虎は落胆あるいは気分を害するかもしれない。あるいは、抱くことが第一目的だと誤認されでもしたら俺に失望するのでは?
いや、もっともあり得そうな顛末としてはこうだ。
『ごめんなさい、晴信がそういうつもりだったなんて考えもしませんでした……私、何にも気づかなくて……すみません、私にはまだその覚悟はないし、かといって晴信を生殺しのままにするのは心苦しいから……この話はなかったことに』
ありそう。
それだけは避けたかった。第一、あれだけの笑顔で楽しそうにここに行きたいと言っていたのだから、そんなしょうもない理由で旅行を取りやめにするのは忍びない。
結論。俺はなにも聞かないし、当日何が起こっても対応できるようにする。
しないならしないでいい。もしも景虎がその気だったらちゃんとできるように準備しておく。
よし。これで対応は万全のはずだ。前日の夜に爪を整え、着替えや細々としたものをボストンバッグに詰めながら、その隙間に小さな箱を忍ばせる。
「……いや、さすがに箱では多いな……」
三個くらいにしておこう。……念のため。
当日はよく晴れた。目的地までは二時間半のドライブになる。助手席の景虎はどこか眠そうな顔のくせに、寝て構わないと言っても聞かない。
「だって晴信が運転してくれてるのに……」
真面目というか律儀というか。ここでも景虎は頑なだった。助手席で寝られるのを殊更嫌がる運転手がいるという話を聞くが、俺はまったく気にしない。そう言っても頷かない。
「寝顔見れるかと思ったんだが」
茶化すように笑うと、景虎は「呆れた」と言わんばかりに嘆息した、気配が感じられた。
「そもそもなんだってそんなに眠そうなんだ?」
高速道路を走り初めて三十分、次のサービスエリアは十五キロ先。渋滞情報はなし。ナビの画面で確認している俺は景虎の顔を見るゆとりはあまりない。
「楽しみすぎて眠れなかったのか?」
「そんな子供じゃあるまいし……今週はちょっと忙しかっただけです」
「……」
忙しいのはいつものことだが、景虎はあまりそういう話をしない。隠しているわけではなく、単にいつもの勤怠状況はこいつにとって「忙しい」うちに入らないから取り立てて言うべきことでもないというだけ、らしい。その景虎が「忙しい」と言うくらいだから、きっと特別なことがあったのだろう。
しかし多忙の原因がもしも重大なものならば、旅行のために今ここにいるはずもなく。
つまりは、俺との旅行に行く余暇を捻出するために、怒濤の勢いで仕事を片付けてきた、その結果の寝不足というわけだ。
自分が言い出したから中止や延期にしたくなかったという責任感もあるだろうが、同行者が俺だからというのも大きな理由だったと自惚れたい。そんなかわいい恋人を気遣うのは当然ではないだろうか。
「だったらなおのこと寝てろよ。到着した後に楽しめなくなるぞ」
走行中眠れたところでせいぜい一、二時間だろうが、このまま起きているよりはマシだろう。
「大丈夫です。せっかく二人でいるのに眠っちゃったらもったいないからずっと起きてます」
本当にかわいいことを言う。そこまで言うなら俺もこれ以上強いるつもりはない。「わかった」と片手を上げると、景虎は満足そうにシートに深く沈んだ――と思ったらこちらを振り返り、
「だから晴信も我慢してください」
と、よく意味の分からないことを言いだす。「俺? 何をだよ」と問い返すと、景虎は自分から言い出しておきながら少し言い淀んだ。
「……寝顔。今晩いくらでも見れるでしょ」
さすがにハンドルやクラッチの操作を誤ることはなかったが、一瞬俺の脳裏に現れた、まだ見ぬ光景に狼狽えてしまう。
「……おまえ、運転中に妙なこと言うなよ」
俺は冗談で言ったことなのに。とは言えなかった。寝顔が見たいのは偽らざる本心だし。
「貴方が先に言い出したくせに」
そういう問題でもないと思うのだが、これ以上つっこむとさらに動揺させる発言が飛び出しそうなのでやめた。
その後はおおむね他愛のない雑談と、目的地での予定立てを話すばかりだった。景虎は結局一睡もしなかった。走行中はもとより、休憩に立ち寄ったサービスエリアで俺が煙草を吸っている間も。あいつも土産物売り場を冷やかしたりいつの間にかソフトクリームを買っていたりと楽しんでいるようだったので、それはそれでいいのだが。……いいんだが、どこかで電池が切れたようにぱたっと寝落ちたりはしないだろうなと心配してしまう。
(そうは言ってもあいつも大人だしな)
どうしても眠くなったらそう言うはずだ。今のところ元気一杯の景虎は、長いスカートの裾を揺らしながらサービスエリアの展望台へ走って行く。俺もまた、苦笑しながらその背中を追いかけた。
高速道を降りた後も途中で観光地や道の駅に立ち寄ったものの、早朝に出立したのが功を奏してか旅館には日が高いうちに到着できた。チェックインを済ませて案内された部屋は、こぢんまりとしてはいるが凝ったしつらえの和室だった。そもそも旅館もそれほど大きなものではないようで、部屋数は少ないらしい。規模が大きいゆえに宿泊人数が多く騒がしいところより、断然気に入った。
「ああ、庭がきれい」
荷物を置いた景虎は、外に面した障子を開け放って感激している。開けた視界の先は、確かに趣のある日本庭園が広がっていた。旅館と同じく庭もそれほど広くはないものの、きちんと手入れされているのが伺える。気の早い木々は少し紅葉し始めているが、もう少し寒くなれば一面が美しい朱に染まるだろう。
「……静かですね」
温泉旅館が軒を連ねるこのあたりでも、この旅館はとりわけ山に近い。人の気配や車の音などはほとんど聞こえず、どこかを流れる小川のせせらぎだけが耳に届く。時折、都会では馴染みのない野鳥の鳴き声らしきものも聞き取れるほどだった。
「いい宿だな」
ああいう冊子に掲載されたならもっと人も多いかと思っていたが、少し拍子抜けした。後で旅館のスタッフから聞いたが、俺たちが予約できたのはたまたまキャンセルが出たからで、毎年桜と紅葉の季節は早いうちから満室らしい。皆、見たいものは決まっているわけだ。
「私たち、本当に運がよかったのかもしれませんね」
浴衣に着替えた景虎は、ほくほくとした顔だった。食事の前に一風呂浴びようという話になって、大浴場へと移動する道すがらだった。
「日頃の行いのせいだな」
「私の?」
「……まあ、両方だよ」
思えばこんな会話を自然とできるようになったのはいつからだろうか。
うわべだけの交際中は、俺は疑心暗鬼で鬱屈した気分、景虎は半ばやけっぱちで、互いに本心を見せない会話はどこか上滑りしていたように思う。ちゃんと互いの意志を確認して本当に付き合い始めた最初の頃はどこかぎくしゃくしていた。あれは自分でも、思いだすたび少し恥ずかしい。まるで互いが初めての恋人の中高生みたいだった。それでも幼馴染だからから、あるいはまったく別の要因でもあるのか、俺たちは今のような関係に落ち着いた。うん、落ち着いた、というのがとてもしっくりくる。その関係から今夜、さらに一歩踏み出せるのかどうか――それは俺にも、多分景虎にも、わからないことだった。
男湯の客はまばらだった。外に通じる引き戸の先は露天風呂になっているが、隣接の露天女湯からかしましい女性客たちの笑い声が聞こえてきたので、これは落ち着けないと思い内風呂へと戻ることにした。男湯の露天風呂が無人なのは、皆同じ考えだかららしい。再び湯船に体を沈め、ぼんやりと天井を見上げる。
運転が苦ではないとはいえ、普段は走らないような山道を、助手席に景虎を乗せて運転するのはいつもより疲れた。熱めの湯に疲労感がゆるゆると溶けだしていくようで、ふっと目を閉じる。
景虎はどうしているだろうか。
あのやかましい女性客たちに辟易しているのではないだろうか。俺と同じように内風呂で脱力しているだろうか。ずいぶん眠そうだったが、まさか大浴場で寝落ちたりはしないよな?
ここで心配してもどうにもならないが、ついそんなことばかり考えてしまう。仕方ない、一人旅ではないのだから。同行者を心配するのは当然だろう。でも、それが嫌だというわけではなかった。想う相手がいるというのは、不思議とこの心を温かく満たしている。
温泉を出た俺は、外の喫煙所で景虎を待った。長い髪を乾かすのは時間がかかるだろうし、そうでなくても女は長湯だ。俺が先だろうから喫煙所にいると、大浴場の入り口で伝えている。暮れ始めた秋の空に、白い煙がゆっくりと霞んで消える。まだまだ現れる気配のない待ち人を想いながら、秋の日が落ちていく。頬を撫でる風は少し冷たく、俺をなおのこと人恋しくさせた。
二本目の煙草を吸い終わって数分。そろそろ冷えてきたので待合ロビーに戻ろうかとしたとき、
「晴信」
貸し出された下駄を鳴らして景虎が現れた。軽くまとめた髪の毛先を揺らしながら、俺が座るベンチに隣り合うように腰を下ろす。動きにあわせて、ふわりと甘い香りがした。ボディーソープか何かだとわかっていても妙に落ち着かない。
「お待たせしてすみません」
「そんなに待ってない……けど、ここはもう冷えるから」
中に入ろうと促し立ち上がると、景虎は俺の手を取って従った。湯上りのせいか少しだけ熱く、しっとりとした指先に動揺してしまう。
「晴信、ちょっと手が冷たいですよ」
湯冷めしたんじゃないですか? と、眉を下げる景虎は、自分が遅く来たことを心苦しく感じているらしい。気にしていないと言いながら、ふと思いついたことを口にしてみる。
「じゃあ後でおまえに温めてもらおうか」
冗談めかして言ったのがよかったのか悪かったのか。
「え? どうやって?」
なにもわかっていない顔だった。別にとぼけているわけではないらしい。あまつさえ、
「あ、お酒飲んだらあったまりますよ! 楽しみですね、晩御飯」
と、景虎の意識は今晩の夕食「料理長のおすすめ秋懐石コース・地酒堪能プラン」に飛んで行ってしまった。うきうきとした足取りの景虎のつむじを見ながら、空回りの俺は軽く肩を落とすしかなかった。
部屋食の夕餉は豪勢なものだった。食卓にところ狭しと並べられた器はどれもが見栄えもよく、味も絶品。景虎はブランド牛の焼きしゃぶを食べては「ん~脂の甘みが口の中でとろけますね!」とよろこび、地酒を飲み比べては満足そうに溜息を漏らす。堪能しているようで何よりだった。
「晴信、あんまり飲んでませんね」
景虎はそう言うが、俺が普通なだけでこいつが人並み以上に飲んでいるだけだ。
「明日も運転だからな、あまり残るといかんだろう」
もっともらしいことを言うと、景虎は納得したような顔で「私だけ楽しんですみません……」と体を縮こませる。自分も控えようという考えはないのかと苦笑しながら頷く俺は、それについて何を言う気もない。今言ったようなまっとうな理由で酒量を抑えているわけではないからだ。
(この後使い物にならなかったら困るからな)
目の前で盃を重ねる景虎は俺の思惑など知る由もない。
食後は少し部屋でくつろいで、その後俺は喫煙所に、景虎はもう一風呂浴びてくると言って大浴場へと向かった。さすがに夜ともなれば外の喫煙所は冷えたので、結局俺も湯船に入ることにする。まだ九時を回ったばかりだが、運よく露天風呂は無人だった。ぼうと明るく光る月を眺めながら、景虎ならきっと月見酒がどうこう言うだろうな、なんて考える。
……今日の俺は、あいつのことばかり思い浮かべてしまう。恋情もそうだが、この劣情が満たされるかもしれないという期待のせいだろうか。だとしたら俺もまだまだ若造、いっそ童貞にでも戻ったような気分だった。
そうだったらいいのに、と思う気持ちがないわけではない。
子供のころからずっと一緒にいられると信じていたのは脆くも崩れ去り、俺はあいつがいない間に様々の経験を積んでしまった。あれもこれも、あいつと一緒に経験したかったことばかりだ。なんの意味もないむなしい願いだが、もしもやり直せるなら今度こそ、ずっと隣で生きてみたいと思う。
けれど、どうだろうな。一度離れ離れになったからこそ、今俺は景虎と一緒にいるのかもしれない。一度も分かたれることがなかったなら、どこかのタイミングで互いに愛想をつかして他の誰かと一緒になったかもしれない。結局のところなにもかもはそうなってみなければわからないという話にしかならないのだろう。もしかしたらこの先の俺たちが、別れを選ぶかもしれないように。
だから俺にできることは、景虎と共に在る今に精一杯を尽くすだけだ。
男湯から出ると、丁度景虎も女湯から出てきたところだった。
「晴信も入ってたんですか」
驚いたような顔が手を伸ばす。その手は相変わらずしっとりと熱く、俺を不必要に駆り立てる。
「喫煙所に出たら冷えてな……けど風呂から出たらまた一服したくなる……」
「あっはは、それじゃいつまでも終わらないですね」
呆れ混じりに笑う景虎は、ゆっくりと瞬きをしている。明らかに眠そうな仕草だった。ロビーにはフリードリンクの案内もあったが、この景虎に強いるのは憚られた。
「さすがに眠そうだな。部屋に戻るか」
「はい……」
戻った部屋には布団が並べて敷かれている。景虎は動揺するかと思ったが、無反応だった。並んで歯を磨いている間も様子を伺っていたが、特段普段と変わったところはない。
「明日もありますし、今日はそろそろ寝ましょうか」
時刻は十時前。大の大人が寝るには早すぎる。灯りを消した後にやることがあるのなら、話は別だが。
しかし予想通り、景虎は自分の布団に静かに潜り込み「ふかふか……よく眠れそう……」とぽやぽやした感想を述べている。
今夜は何も起きないことを、俺は確信した。大の大人が揃って何もないのはどうかと思わないでもないが、大人だから我慢しろと言われるとそれはそれで返す言葉もない。
落胆は確かにあったが、同時にわずかな安堵もあった。どうしてほっとしているのか、俺自身理解に苦しむところではあるが。
床に入り電気を消すと、途端にあたりが静かになる。隣にいるはずの景虎の気配すらあやふやで、俺は確かめたくなった。ああ、やはり欲しいと思う心を否定できない。今すぐにでも抱きしめて、腕の中に閉じ込めてしまいたい。そうして、おまえを、俺だけのものに――
「……晴信」
小声で名を呼ばれて、どきりとする。続けて寝返りを打っているような衣擦れの音。闇に慣れ始めた目で振り返ると、こちらを向いた景虎が俺に手を伸ばしていた。
「……どうした」
俺も倣うように手を伸ばすと、景虎の手が重ねられる。熱い。その熱を抱き込みたい衝動をなんとかやり過ごしている俺に、景虎は笑いかけたようだった。
「今日は、ありがとうございました」
景虎の手が、俺の手をきゅっと握る。誘われているのだろうか? そう考えてしまうのは、俺の願望が先走っているだけだと言い聞かせる。
「なんだ、急に」
「いっしょに旅行ができて、うれしくて……あと、運転もしてくれたから……」
俺を見つめる景虎の、とろんとした声が心地いい。思わず腕をついて上体を起こしかけてしまうくらいには、俺は気が急いてしまっていたのだと思う。
「はるのぶ……あしたも…………」
しかし景虎はそれだけ伝えて満足したのか、あとはむにゃむにゃと口をもたつかせた挙句、静かな寝息を立て始めてしまった。
子供か。
そんな一言が出てきそうだったが、俺は不満も苛立ちも感じてはいなかった。無防備で穏やかな寝顔を目の当たりにして、そんな感情を抱くわけがなかった。
無理に抱かなくても、つながることがなくても、俺たちはこの上なく満ち足りているのかもしれない。俺を信じきって眠る景虎の寝顔を眺めていると、ただそれだけのことがありえざる奇跡のように思えて胸がつまった。無垢そのものの寝顔は、いくら見つめていても見飽きなかった。
そうしているうちに俺もまたまどろみの中へと落ちていく。景虎の手は、赤子のように俺の手を握って放さない。手をつないだまま目を閉じる。こんなことが子供の頃にあったような、なかったような――
どこか遠くで、誰かが走るような足音が聞こえた。ぼんやりと覚醒していく俺の瞼を白い光がこじ開けようとする。いつもの自室なら遮光カーテンのおかげで暗い部屋なのにどうしてだろうか、と開いた寝ぼけ眼の先にいたのは、
「おはようございます」
笑顔の景虎だった。隣の布団に横になったまま、どうやら先に目を覚ました景虎は俺の寝顔を見続けていたらしい。それでようやく旅行中だったことを思い出す。
「起きてたのか……なら起こせよ……」
気恥ずかしくてそう言っても、景虎は「だって」と反駁する。
「晴信も昨日は疲れたでしょう? 今日も運転させるんだから、ゆっくり寝かせたくて」
それは本心なのだろう。そして俺の寝顔を楽しんだのも起こさなかった理由の一つではないかと思うのだが。
「……今何時だ?」
「まだ六時ですよ。もう少し寝ます?」
朝食の時間までずいぶんあるが、目は冴えてしまった。昨夜眠ったのが十時前後としたら、睡眠時間は申し分ないほど取れている。
「……起きる」
身体を起こそうとして、気づいた。二人の手はつながれたままだった。まさか一晩中……そんなわけはないよな、と、目を白黒させている俺を景虎は笑う。
「晴信、寝てる間からずーっと手を離してくれなかったんですよ?」
甘えたがりの子供をからかうような口調だった。どの口がそう言うのか。
「何言ってんだ。おまえがつなぎっぱなしで寝落ちしたからこのままだったんじゃないか」
「え?」
強張る表情に、まさか昨夜のことを覚えていないのかと聞くと、まったく記憶にないと言う。
「私、そんなことしたんですか……」
恥じらっているが、たかが手をつないで寝たくらい、どうってことはないのでは……いや、この歳になるとなまじ肉体関係を持つよりもこういうあどけないことの方がこっぱずかしいのはあるかもしれない。
無理に急いて先へ進まなくてよかった、と思った。俺たちはこうして、子供の頃をやりなおしながら、少しずつ進展していくのがいいのかもしれない。
そのあとは「せっかく温泉に来たのだから」と朝風呂に行き、貸し切り状態の露天風呂を楽しんだ。よく晴れた秋の空から、赤い紅葉が一枚舞い落ちる。湯船を漂うひとひらが、なぜか無性に愛おしい。
朝食を済ませ、チェックアウトした俺たちは帰路についた。帰りしなも行きと同じくあちらこちらに立ち寄りながら、残り短い時間を楽しんだ。楽しい時間はあっという間だった。
「そういえば、なんでおまえがあの会報誌持ってたんだ?」
サービスエリアのフードコートでコーヒーを飲みながら、ふと思い出した疑問を投げる。車も持ってないのにロードサービスを契約してるわけじゃないんだろう? そう尋ねると景虎はなんてことはないような軽い口調で、
「してますよ、契約。私バイク持ってますから」
と、俺の度肝を抜いた。
「バイク?」
「はい。楽しいですよ、バイク」
聞けば乗っているのは1,000cc超の大型で、免許を取ったのは大学の頃だと言う。意外にもほどがあった。景虎が、大型バイク? そもそもバイク自体それほど馴染みがないのもあるが、全く想像つかない。つかないなりに、きっと様になるのだろうな、という納得もあった。今もバイクには乗るのかと聞くと、最近はめっきりだと言う。
「まず冬はすごく寒いですし、夏は夏で暑いですから、あと雨が降っても乗る気がなくなります」
逆になんでそれでバイクに乗ろうと思い立ったのか聞きたかったが、最初はそんなことがハードルにはならなかったのかもしれない。どんなことにも言えるが、慣れてしまえば多少は億劫になるものだ。
「何より大きいのは、最近は晴信が一緒にどこでも連れて行ってくれるからです」
そう言われると悪い気はしない。景虎は、専門のガレージにあずかってもらっているバイクの処遇について少し考えているところらしい。
「それにしても……俺はまだまだおまえのことを知らないんだな」
まさか大型バイクを乗り回しているとは思わなかった。苦笑交じりに言えば、景虎も同じように笑い、俺の手を取る。
「私もですよ。貴方がこんなに爪を深く切る人だなんて知りませんでした」
「――まあ、な」
むせそうになったのを何とか堪える。コーヒーを飲み終わっていてよかった。深爪には注意してくださいね、という善意100パーセントの心配に、たまたまだけどな、と誤魔化しながら、俺はなんとも気まずかった。気まずかったし、やっぱり景虎はこの爪の意味すら気づかないほどに純粋で清らかなのだと思い知らされた。何がたまたまだ、準備万端の証じゃないかと自己嫌悪が深まる。こうなってくると最早俺の内心は落胆でも失望でもなく、罪悪感だけでいっぱいになるのだった。
最後に夕食を済ませて景虎を家に送り届けたとき、時刻はまだ八時だった。マンションの近くに車を停めて、エントランスまでついて行く。名残惜しいのはお互いだったが、明日からまた仕事なのもお互い同じ。また機会があれば旅行に行こうかと言うと、景虎は目を輝かせて頷いた。
「そういえば、今回行った旅館の他にもう一軒よさそうなところがあったんです」
今回滞在した宿が満室だったらそちらにしようと考えていたらしい。
「そこは貸し切りの家族風呂っていうのがあるそうですよ」
「家族風呂って……」
あれか? 家族とか、カップルとか、とにかく性別を問わず一緒に入れる、あれか? 困惑する俺をよそに、景虎はエントランスのオートロックにカードキーをかざした。
「いつかそういうところにも行ってみたいですね」
それじゃあおやすみなさい。去り際の言葉とともに、自動ドアが閉ざされていく。複雑な装飾の入ったガラス戸を見つめたまま俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「あいつ……」
やっぱり、わかってたんじゃないだろうか?
それからずっと後。俺と景虎がようやく身も心も結ばれた後。ふと思い出して、あの旅行のときはどういうつもりだったのかと尋ねてみたら、景虎は心底不可解そうな顔をした。
「どういうつもりって、何がですか?」
とぼけているわけではなく、本心から俺の言わんとすることがわからないらしい。
「いや……何って、おまえあの日、俺に抱かれてもいいと思って俺を旅行に誘ったのか?」
「――はい⁉」
聞いたことのないくらい素っ頓狂な高い返事だった。俺はそんなに変なことを聞いただろうか。
「な、なんでそういう考えが浮かぶんですか……⁉」
そういう反応を徹底されるとなんだか不安になってくる。「交際中の男女が泊りがけの旅行に行ったら、その夜そういうことになっても不思議はないだろうが」と言うと、景虎は目を見開いて驚いたような顔をした。
「それは晴信の中だけの常識でしょう?」
あまりに毅然とした態度だった。俺が間違っているのか? いやそんなはずはない。俺は一般的平均的な男性の期待を述べているだけだし、一般的平均的女性も同じ種類の期待を抱いて然るべきだと思う。景虎のことだから人並み外れて潔癖なだけに違いない。
「俺だけじゃないと思うぞ……」
経験ベースで話すとボロが出そうなので一般論として言い聞かせる。観光目的の宿泊でも、そういう仲であればそんなことになってもなんらおかしくはない、と。
「……ほんとに?」
何を疑っているのか理解に苦しむ。
「今更こんなことで嘘ついてなんになるんだよ……俺があの晩おまえをどうにか抱こうとしてだまくらかすってならまだしも……」
そこまで言ってようやく納得したらしい景虎は、今度は顔を赤くして恥じらっている。
「え、じゃ、じゃあ、晴信は、旅行に誘われたとき、私がそういうつもりだって、思ってたんですか……?」
「…………半分くらいな」
景虎は自分が意図せず誘惑めいたことを口にしていたと、今更気づいて羞恥の念に苛まれているらしい。今恥ずかしがってもどうにもならんと思うのだが。
「じゃあ……私が先に寝ちゃってがっかりしました?」
両手で顔を覆った隙間から、困ったような目がそんなことを問いかける。
……それを聞いてどうするのだろう。濁して逃げたい気もしたが、逃げたら面倒なことになりそうだと思って正直に白状した。
「……しなかったと言うと嘘になるが、別にどうしてもおまえをあのとき抱きたいとまでは思わなかった。疲れてるだろうから寝かせてやりたかったしな」
あと寝顔も見れて満足したし……これは蛇足なので言わない。ともかくものすごい難問に回答している気分だった。景虎にとっては俺の回答は満足のいくもの――ではなかったにせよ、少なくとも不満ではなかったらしい。
「そうですか」
と、一言頷いて深呼吸。表情が緩んだかと思ったら、今度は口元がにっこりと弧を描く。あ、これはあまりよくない種類の笑顔だなと身構えたのは果たして正しく、「というかですね」と切り出した後は、やはり景虎らしい潔癖さだった。
「温泉旅館はそういう目的の施設ではないのですから、不埒なことをいたして汚したり、近隣の部屋の宿泊客に迷惑をかけたりする恐れがあることをするのはよくないと思います」
「迷惑?」
話の前後がよくわからなくて聞き返すと、表情がまた崩れた。
「こっ、声とか、音とかです!」
「ああ……」
なるほど。やけに具体的なところまで懸念しているらしい。こういうとこあるよな。
その心配はごもっとも。しかし人間、そこまで理性ずくで生きてもいないものだと思う。この先俺たちだって旅行先でそういうことになるかもしれないのに……とはさすがに口が裂けても言えなかった。この、最近めっきり目にする機会の減った作り笑いから察するに、景虎は本気で「温泉旅館や観光地のホテルで性行為などあり得ない」と思っている。まして先日の家族風呂云々も、風呂の中で不埒なことを働くなどもってのほかだろう。
これほど潔癖の景虎だ。旅館で愛を深めたいだの言おうものなら、俺の評価が地の底まで下がりそうな圧だった。
「確かにそうだな、施設は目的に即した利用をするべきだ」
と、優等生の回答で景虎を満足させ、この話は終わりとした。
しかし温泉旅館の浴衣で乱れる景虎というのは非常にそそるものがある。潔癖だからこそぐずぐずに流されていく姿が際立つというか……。いつかまた機会があれば、こいつをその気にさせたいのだが。
(end)