小説 · 2023年11月13日

桜の園に降る

 無医村と呼ばれる過疎地域への赴任を終え、東京の母校に戻った私を待っていたのは信じがたい現実だった。
「――徳永先生、ですか? 助教授……?」
 研修医時代から世話になっていた助教授の名前がどこにも見当たらないので秘書に尋ねた、その時点で少し嫌な予感はした。徳永、という名前自体聞き覚えがなさそうな顔だったからだ。いくらなんでも、二十歳そこそこの新人だとしても、助教授の肩書を持つ人の名前に覚えがないというのはあり得ない。しかし私は、そのあり得ない可能性を願った。徳永先生がいない可能性よりも、私にあてがわれた秘書の資質に問題があるというほうがまだマシだった。
 しかしその数十分後、秘書が人事担当に問い合わせた結果を耳にして私は愕然とした。
「徳永助教授は2年前に退官されています。それと……医師会に問い合わせたのですが、届出がなされていません」
 どうやら私の秘書は有能らしい。言ってもいないのに医師会への問い合わせまでしてくれたのは、彼女なりに徳永先生の行方を調べようとしてくれたのだろう。だが、届出がない……つまり徳永先生は、今現在、医師として働いていないのかもしれない。もしかしたらどこかで開業しているのではないか、そんな希望すら、あっけなく打ち砕かれてしまった。
 何も言えずに立ち尽くすばかりの私に、さらなる追い打ちがかけられる。
「あの……それと……徳永先生が退官された事情ですが――」

§

 新幹線を使うまでもない距離だったが、逸る気持ちがそうさせたのだろう。到着した新夢崎駅からバスを使い、私は目的地を目指した。正円の形をした珠閒瑠市を分断するように流れる川は、七夕川と言うらしい。その一級河川沿いにバスは進んでいく。繁華街らしい夢崎区とは違って、中央区の蓮華台という地域は落ち着いた街並みだった。バスターミナルと隣接している商業ビルもあるが、蓮華台の大半は住宅街だった。おそらくかつては珠閒瑠城の城下町だったのだろう。
 私が目指しているのも、その珠閒瑠城があった場所だった。今は本丸公園と名を変え、地域住民の憩いの場になっている。
 徳永先生の所在について調査を依頼した探偵から受けた報告は私を混乱させた。
「ホームレス、って言うんですかね。今は公園で根無し草みたいな暮らしをしているようですよ」
 時折日銭を稼ぐために日雇いの現場に顔を出してはいるらしいが、大半はこの公園でぼんやりと過ごしているらしい。つまりは定職にもつかず、住居すらないのか。
 愕然とした。かつては最高学府の医局に在籍し、ゆくゆくは外科部長となることを約束されたような人が、なぜ――
 探偵から渡された写真の徳永先生の顔には、覇気が感じられなかった。穏やかな表情などとはとても言えない、諦念が色濃く感じられる暗い顔だった。
 信じられない、確かめなければならない、そう思ってここまでやってきたのに、本丸公園の入り口で、私はしばし立ち止まっていた。傍らを子供たちが駆け抜けていく気配も、ベビーカーを押した女性たちから不審の目を向けられているのも感じ取っていた。
 私は果たして本当に、ここに足を踏み入れるべきなのだろうか。かつて尊敬した人の姿を目の当たりにしてショックを受けずにいる自信はない。何も見ず確かめず、知らぬふりをして生きていくほうがいいのではないか、新幹線の中でもバスの中でも考えたことだった。それでも、探偵の言ったことが間違いである可能性を、万に一つもないだろう希望を、諦めることができなかった。
 散り始めた桜の木々が風に静かに揺れていた。
 春の午後、日差しは穏やかにすべてを照らしている。遊具で遊ぶ子供たち、それを見守る親の姿、仕事の途中なのかベンチで一服している男性、学校をサボっているらしい制服姿の女子学生。
(徳永先生――)
 ありふれた光景の中で彼の姿は異様だった。いや、ホームレスという存在は残念ながら今の日本ではありふれたものかもしれない。異様だと感じてしまったのは、数年前まで大学病院で辣腕を振るっていたあの人がそうなっていることを理解したくない私のささやかな抵抗なのだろう。
 擦り切れて薄汚れた衣服、整えられていない不衛生な口髭、人目を避ける意図なのか目深にかぶられたサウナハットのような帽子。そこに面影など一つもない。柔和そうな印象を与えていた丸い眼鏡だけが、あのころの徳永先生のままだった。
『二年前、医療過誤事件の責任を問われて退官されました』
 学内の派閥争いでどちらにも与しなかった徳永先生は、誰からも庇われなかったらしい――秘書の彼女が語った言葉を思い出す。徳永先生は一人きりで、誰からも見向きされていない。今も、二年前も。
「あっ!」
 そのとき、幼稚園児くらいの子がベンチの目の前で転倒した。私はずっと、そのベンチに腰かけている徳永先生を見ていたので転ぶ瞬間もはっきり見ていた。距離があるので断言はできないが、地面についた手が変にねじれていたような気がする。骨折の可能性があるかもしれない、思わず駆けだそうとして、一瞬動きを止めてしまった。
 もし、もしも――徳永先生がまだ医者であってくれるのなら――
 私と同じようにあの子の手を確かめるのではないか。
 かすかな希望だった。願い、あるいは執着と言ってもいいかもしれない。目の前で泣いているこどもを放って平気な顔ができるような人であってほしくなかった。
 しかし徳永先生は、黙って立ち上がると何もせず、背中を丸めてのろのろとどこかへ立ち去ってしまった。その後姿には、誇りをもって職責に当たっていた在りし日の輝きはなかった。
 目の前で大きな扉が閉ざされたような、そんな幻聴を感じる。
 先生、あなたは、医者としての自分まで捨てたのですか。
 たまらなかった。私は走り、その肩を掴んで問い質したかった。それをしなかったのは、目の前の怪我人を優先したのは、自分が医者だという自負があるからだ。
 泣いている子供の手を確かめながら、私は徳永先生を恨んだ。恨みながら、まだ希望を捨てきれずにいるのも事実だった。
 先生、あなたがベンチから立ち上がるまで、ためらうような間があったように見えました。苦しそうな顔をしたようにも見えました。本当は手を差し伸べたかったんじゃないですか。医師であることを諦めていないんじゃありませんか。今のご自分が客観的にどう見えているかを考えて、あえて声をかけなかったんじゃないですか。もしかして僕がここにいることもわかっていて、任せようと思って立ち去ったんじゃないですか。そうですよね、先生、答えてください。お願いです、先生、先生――
 振り返った先に彼の姿はない。ただ舞い落ちる花弁と子供の泣き声が、嵐のように何もかもを乱していた。

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