晩冬。自動ドア越しの夕日がコンビニエンスストアの中を橙色に融かしていた。店外に面したマガジンラックの前で経済誌をめくっている男性を見るともなしに見て、YIN&YANのアルバイト店員・黛ゆきのは二つ隣の棚の間にコンテナを運ぶ。
あの雑誌をラックに並べたのはゆきのだった。陳列しながら感じた、「一体誰がこんな意味の分からない本を読むのだろう」という疑問に対する答えは得られたものの、今度は「あんなものを読んで何が楽しいのだろうか」という新たな疑問が生じてくる。
けれど――
(まあ、アタシには関係のない世界のことだ)
ゆきのは、そう結論付けた。考えたところで答えの出ないことに、頭を悩ませる必要はない。それに考えるべきことはほかにあった。先ほどトラックで配送されてきたばかりの商品を並べながら、ゆきのは彼女が抱えているトラブルについて考えを巡らせる。
端的に言えば、困っていた。
もう少し詳しく言うと、金銭的に困窮している。
家計が常に火の車というわけではない。黛家の生活が慎ましやかなのは事実だが、彼女がYIN&YANでアルバイトをしているのはほとんど自分のためだ。時折弟たちに小遣いをせびられることもあるが、それで困ったことはなかった――昨日までは。
§
小学校に通う弟の様子がおかしいことに気づいたのは、母親不在の夕食を囲んでいるときのことだった。普段ならきょうだいに負けじとおかわりするのに、一杯だけで箸を置くので、具合でも悪いのかと聞けば強張った顔で笑ってみせる。そういうはっきりしない態度はゆきのの好まざるところだったので、食事の後片付けが済んだあとに捕まえてはみたのだが、これがなかなか、口を割らない。しかしさすがに小学生の彼が、高校生、かつある意味では最大の畏怖の対象である長子のゆきのにいつまでも知らぬ存ぜぬを通せるわけもなかった。
友人から借りたゲームソフトを誤って壊してしまった。月曜日には返す約束なのに、どうしよう。
そう語る弟の声は、徐々に涙声になっていく。叱られるのが怖いのではない。友人に申し訳ないというそれだけで泣いているのでもない。ただそんなことで姉に心配をかける自分の不甲斐なさが悔しくて、少年はとうとう涙をこぼした。
「ああ……泣くんじゃないよ」
わざと壊したわけでもなし、ちゃんと説明して誠心誠意謝れば、きっと相手もわかってくれるだろう。弁償に必要な金なら自分がどうにかする――ゆきのにそう言われて、弟はようやく人心地がついたような、ほっとした表情を取り戻した。
「週明けに返すなら、日曜日に一緒に買いに行けば間に合うだろう? ほら、今日はもう遅いから、寝な」
すでにきょうだいたちが枕を並べている部屋に弟を送り出すと、ゆきのは細い溜息を吐いた。
(まいった……)
弟の手前ああ言うしかなかったのだが、弁償するための金銭的余裕はなかった。
ゆきのはテレビゲームに馴染みはないが、ソフトが大体いくらするのか、その程度の知識はある。それは大人からすれば微々たる額かもしれない。しかし、高校生の彼女にとってはちょっとした金額だった。
アルバイトの給料日前なので、財布の中身は確認するまでもない。遅くに帰宅した母に頼ることも避けたかった。というより、避けなければならなかった。ゆきのが個人的に金欠だという嘘をついてもすぐにバレそうだったし、そもそもゆきの自身、嘘はつけない性分だ。だからと言って真実を話すわけにもいかない。弟自身が母にこの事実を知られることを嫌がっていたし、母の性格からして息子が他人の物を(わざとではないにしても、)壊してしまったと知れば、一も二もなく相手の家に謝罪に赴くに違いない。そうなれば向こうの保護者だって巻き込んでしまう。身勝手ではあるが、そこまで話を大きくしたくはない……というのが、ゆきのたち子供の理屈だった。
となると、ゆきの自身がどうにかして、日曜日までに、ゲームソフトを買えるくらいの金額を、しかも即金で――稼がなければならない。
やはり、頭を抱えるしかなかった。
誰かに借りるわけにもいかないし、あてもない。かといって頭を抱えているだけで状況が好転するわけもない。
とにかくゆきのは動いてみることにした。早速翌日、バイト先の雑誌コーナーに並んでいた無料の求人情報誌をかたっぱしから持ち帰り、条件に合う求人を求めてひたすら捲る。
日払い・単発・高校生可。
予想はしていたが、すべての条件を満たす求人情報はめったにない。かろうじて条件を満たしていた引っ越し業者のバイトも、電話したときには定員満了で募集を締め切った後だった。
「……まいったね」
何度目だろうか。大の字に寝そべって、そうこぼすほかなかった。落胆しながら、どうして高校生ではいけないのかと八つ当たりのような感情が湧き出ていた。大人はきっと、高校生の本分は学業なのだから、という正論をぶつけてくるのだろうと思うと無性に腹が立った。
「……」
そうやって憤慨するのも少し懐かしい感覚のように思えて、ゆきのは小さく笑う。腹を立てたところで何も解決しないのだから、無意味なことは考えないことにした。周りに当たり散らすだけだったころよりは大人になれたのだろうか、という感慨が一瞬ゆきのの脳裏をよぎる。けれど一番尊敬する大人の顔を思い浮かべてみればそんな考えは思い上がりに等しいものだと感じられた。
何もしなくても、年月が経てば年齢だけは重ねられる。これまでにゆきのが接した大人の大半からはそういう印象しか得られなかった。いつか自分もそういう大人になるのだろうか、なってしまうのだろうか。自分がこうなりたいと思い描く大人に近づくことはできるだろうか。
徐々にゆきのの意識は薄れていく。まどろみの中に浮かんでいたもののことは、もう覚えていない。
§
さらに明けて木曜日はアルバイトの日。品出し、レジ打ち、弁当のあたため。単純作業のようでそうでない仕事は、程よくゆきのの思考を奪っていく。そうこうしているうちに時刻は夜の八時を回っていた。
結局この二日間で解決策と呼べそうなものは何一つ思いつかない。給料日は五日後。もう少し後になれば、ゆきのは世の中に「給料の前借」という禁じ手があることを知るのだが、今このときに持たない知識など引き合いに出しても仕方がない。弟にああ言った手前、やっぱり無理だと撤回することだけは避けたいのだが、明日までこんな調子では自分の謝罪のやり方を考えるほうにリソースを割かなければならなくなる。むしろ今からそっちを考えたほうが現実的な気がし始めて、ゆきのは大きく息を吐き、棚から回収した賞味期限間近の品が入ったコンテナを持って立ち上がった。
そのときだった。
「あっ! あ、ああ、ああ~~~っ⁉」
甲高い声が店内にこだまする。酔っ払いが現れるにはいささか早い時間だが、その声は明らかに平静さを欠いており、店員と客のすべての意識を奪った。もちろん、ゆきのも思わず目を向けてしまう――と、その声の主と思しき女性と視線がぶつかってしまう。
……察するに、彼女は自分を見て例の悲鳴を上げたようだった、と、理解したゆきのはもちろんいい気はしない。思わず、にらみつけそうになるのは抑えたものの眉間に皺が寄っている。しかし相手は臆したふうでもない。
「あ、あ、あの、あなた! あなたバイト⁉ バイトの子かな⁉」
それどころか、誰もがぎょっとするほどの勢いでその女性はゆきのに詰め寄った。詰め寄ったとしか言いようがない剣幕だった。
「……そうですけど」
ゆきのの目には不信感と、かすかな動揺が浮かんでいる。制服を着ているのだからアルバイトなのは見ればわかるだろうに。なんなのだ、この女は。
気の弱い人物だったなら、ひと睨みで態度を改めただろう。が、やはりというか、この女性にはまったく通用していないらしい。今時めずらしいくらい大きな眼鏡の奥から、度の強さで大きさがわからない二つの目がじっとゆきのを見ている。
「あの、フリーター? 毎日バイト?」
「いや毎日じゃないです。学生なんで」
「学生⁉ 大学生⁉」
「……高校です」
「高校生!!」
まくしたてるような質問にゆきのは少し、逃げ出したくなった。ただ、相手はゆきのよりもずっと背が低く、不審ではあるが敵意や害意はまったく感じられなかったのでつい流されるまま対応してしまう。なんだか背中が後ろに反っているような気がしたがおそらく気のせいではないだろう。上体がしなっているのは二人とも同じだった。
その無茶な体勢に気づいた女性が、「あ」と小さく息を吐いて、上半身を起こす。おきあがりこぼしのようだと思った。
「高校生なんだ……ええ……すごいねぇ、こんなに背が高くて、それに美人!」
にっこりと人のいい笑みだったが、むしろ得体の知れなさが強まって胡散臭いことこの上ない。取り繕うような賛辞をあっさり受け取れるほど、ゆきのは世間知らずではないが、つい相手をしてしまった。こんな女性に関わらないほうがいいのでは……。そう思っていたのに、ゆきのの口から出た言葉はまるで正反対の意図だった。
「……あの、なんなんですか?」
別に知りたいわけではないのに、適当にあしらってしまえばいいのに、わずかな好奇心が深入りを許してしまう。だが、おそらくゆきのがそう言わなかったとしても、彼女の行動は同じだっただろう。
「あっ、ごめんね、私こういうもので……」
言いながら、上着のポケットから取り出したのは角が柔らかく折れた名刺だった。普通名刺と言ったら名刺入れというものから出てくるのではないだろうか? 高校生のゆきのでも、この女――片桐という苗字らしい――はズボラなほうの人種だと判断できた。
片桐はひとつ咳ばらいをして、やや神妙な顔になる。
「いきなりごめんなさい。実は……」
§
さらに一夜明けて、金曜日。
「黛」
放課後の教室前を歩いていたゆきのは、背後からの呼びかけに振り返る。
「――あ、冴子先生」
袖を通さずにジャケットを羽織った担任教師が神妙な顔で立っていた。思わず「先生、そんな顔してどうしたんだい?」なんて言葉が漏れそうになるが、なんとなく圧しとどめてしまう。おそらく、こぼれたところで高見冴子は「それはこっちのセリフだよ」と呆れたに違いない。
「浮かない顔してるね。小テストの点数も振るわなかったし、何かあったのかい?」
「……」
不調を把握されているのは気まずかったけれど、心のどこかではそれがうれしかったのも事実だ。
冴子は受け持っているクラスの生徒をよく見ている。四十人近い担任生徒を一人一人見守っている。ゆきののことも例外ではない、大事な生徒の一人だと言外に告げられたようで、ゆきのは体の芯が熱くなるのを自覚した。高見冴子は、ゆきのが尊敬する数少ない大人の一人だった。だから、向けられた心配そうな視線も突っぱねることはしない。少し躊躇いはあったものの、ゆきのは意を決する。
冴子が担任だから、という事実のためだけではない。彼女はゆきのにとって、ほぼ唯一の「尊敬に値する大人」だから。それが一番大きな理由だった。
「先生、実はちょっと……話が」
こめかみの、髪の生え際あたりをかきながらゆきのは口を開いた。幸い、今日はアルバイトの予定もない。
§
窓の外はすでに日が暮れかけて、御影町の町並みは濃い紫色に沈み始めていた。受験シーズンも落ち着いて利用者がいないせいだろう、冷え切った進路指導室はストーブを点けても中々暖まらない。
「なるほど。それで日曜日までにお金が必要なんだね?」
ぎりぎりまでストーブの囲いに近づけた両手を擦り合わせながら冴子は二三度頷いて見せる。どこから話したものかと思案したが、要領よくまとめるのは不得手だという自覚があったので、ゆきのはそもそもの発端――つまりなぜ彼女が金策に頭を悩ませているのか、を説明した。つっかえながらのゆきのの話を、冴子は辛抱強く聞いてくれた――ようにゆきのには感じられた。
「バイト先の給料日はまだ先だし、日雇いのバイトも見つからないし、どうしようって思ってたときに、あの人が現れたんだ」
そうまとめたゆきのは、昨日渡された名刺を冴子に見せる。と、冴子は目を見開いた。その表情はなんだかうれしそうにも思われた。
「へー、キスメット出版の」
「先生、知ってるの?」
「ああ、大学の時の後輩がここに勤めてるんだよ」
「ふぅん」
きっとその後輩のことを思い出して、冴子は笑みを浮かべたのだろう。「まあそれはさておき」と、当の冴子本人が脱線した話を戻す。
「その片桐さん? が、どうして黛に声をかけたのさ」
それはゆきのにとっても謎だった。
「……それはあたしにもわからないんだけどさ、なんでも明日撮影予定のモデルの一人が急病とかで、代わりになるモデルを探してるらしくて、あたしがそのモデルとそっくりだから代理でモデル、やってくれないかって」
「はあ?」
冴子はあからさまに怪訝な顔をした。
これを怪しいと言わずしてなんだと言えるのか。あまり詳しくはないが、ファッションモデルならば専門のプロダクションや事務所があるだろうし、代理を探すならそこをあたるのが筋ではないのか?
「先生もそう思うよね……」
ゆきのは冴子の疑問が昨日の自分のそれと同じことに安堵した。やっぱりこの話は、話だけならおかしい気がする。するのだが――
『おねがい! 人助けだと思って! 別の撮影も入ってて他に任せられそうなモデルさんがいなくて、あなた、あのモデルさんにそっくりなの! ね、どうかな⁉ 撮影は土曜日なんだけど日当3……いや5万で! どうかな⁉』
藁をも掴むというのはああいう態度のことを言うのだろう。変な女だと思うし言っていることもすべてを信じられるわけでもないとは思うが、彼女が進退窮まっているのはうそではないように感じられた。どう見ても困っている人間を「怪しいから」という理由で突き放していいのだろうか?
ゆきのにはどうしても、できなかった。進退窮まった片桐の懇願に根負けして、ゆきのはどうにか「一日考えさせてくれ」「高校生なのだから親の許可だって学校への申請だって必要だ」と絞り出し、片桐の攻勢をなんとか振り切ったのだった。片桐としても危ない橋を渡る気はないらしく、
『そ、そっか! そうだよね! 親御さんとか学校とか、あるよね! ウンウン! わかった! じゃあ明日の夕方までにここに電話してくれる? あっもし必要だったら私が説明に伺っても――』
以下割愛。
とにかくゆきのにモデルをやってもらう、やってもらえなければこの腹掻っ捌いて責任を取るしかない、とでも言いだしそうな剣幕だった。高校生のゆきのにとって一生分のそれにも匹敵するのではと思えそうな心労をなんとかあしらって、帰宅したころには心は――揺れていた。
「え? やってみたいの? モデル」
本心から意外そうな冴子に片手をひらひらと振り、ゆきのは、それについては否定してみせる。
「そうじゃなくて……正直、日当5万ってのはすごく魅力的だし……」
金額につられているようで憚られたものの、そこは正直に打ち明けた。
「それに、あの人が困ってるのは嘘じゃないと思ったから」
ゆきのの言葉は予想外にきっぱりとしていた。そう言われると、冴子も無下に否定する気を削がれていく。うん、と、一言返すと、ゆきのは言葉をつづけた。
「あとさ、家帰ってから考えたんだけど、もしあの人が高校生をだましてどうこうって考えてるならさ、もっと気が弱そうな子に声かけないかな? バイト先には女子も高校生もアタシ以外にいるのに、それでもアタシに声をかけた理由があるなら、それを簡単に無視していいのかな、って」
確かに、ゆきのの言うことにも一理ある。ゆきのには、たとえ不埒な輩に声をかけられてもきっぱり断る意思の強さがある。それが彼女の表情や姿勢にも表れている。子供の無知に付け込んで悪さをしようという不埒な輩は、敢えてゆきののようなしっかりした子には声をかけないだろう。それに、親や学校に話すと言ったゆきのを止めなかったのも、信が置けるように思えた。
しかし、冴子の不安はぬぐえない。見ず知らずの他人に対してゆきのは少し甘いように思えた。もしかしたらその人物は、ゆきのの情の厚さを見抜いていたのでは? などと邪推してみるが、冴子はゆきのと片桐の会話を聞いたわけでもないし顔も見ていない。まさかこれから直接会って直談判するわけにはいかないが、お誂え向きというか、幸い手元に名刺はある。そこに目を落として考え込んでいると、ゆきのが「先生」と呼びかける。顔を上げた冴子が目にしたその表情は先ほどまでとは打って変わって、やたらともじもじしていた。
「あと……これ、先生だから言うんだけどさ……」
ためらい、それから、わずかな恥じらいで、ゆきのは両手の指先を握りこんだ。
「――あたし、カメラに興味があって」
意を決したゆきのの告白に、冴子の目がこれ以上ないほど大きく見開かれた。冴子がそんな顔をする理由はもちろんある。
今は落ち着いているものの、少し前まで黛ゆきのは素行不良の生徒だった。周囲の、特に大人には不信感しか持っていないようだったし、自分の将来にだってどこか捨て鉢の刹那的な少女という印象を与えていた。
それが今、カメラに興味があると言う。
冴子はようやく心の底から納得した。ゆきのがきっぱりと断らなかった理由は金銭的なものでも情に流されてのことでもない。
彼女は、見つけたのだ。
ゆきのは、おそらく無自覚だろうけれど、大きく変わろうとしている。これを喜ばしいと言わずしてなんと言うのか。教師である自分が一番、魂を揺さぶられる瞬間は、生徒の成長を目にしたときなのだから。
「――黛!」
「えっ、はい⁉」
冴子は感極まったと言わんばかりに両手でゆきのの肩を叩く。痛いと言われてもお構いなしで、勢い余って自分よりも上背のあるゆきのを抱きしめそうなほどだった。
「いいじゃないか! 興味があるなら社会科見学がてら行っておいで!」
カメラで撮られる方に興味があるのか撮る方に興味があるのか、それともカメラの機構に興味があるのかわからないが、なんにせよカメラが現実に使われている場面を間近で見るのはとてもいい経験になる。と、冴子は背中を押したのだが、
「……先生、止めないのかい?」
ゆきのは少し眉を下げ、驚きと困惑と高揚をその顔に浮かべた。
「そりゃ危ない話だったら止めるよ? でもそのバイトが危なくなくて、黛がやりたいっていうんなら、あたしにはそれを止める理由が見つけられない。校則にもバイトは届け出ることっては書いてあるけど、モデルやるのがダメなんてどこにも書かれてないからね」
知らないことに触れること、いろんな経験をすること、たくさんの人に出会うこと、それはきっとゆきのを、見たことのない場所へ連れて行ってくれるだろう。
それでも、ゆきのの不安や不信はぬぐえないらしい。
「……本当に、危なくないのかな。アタシ考えても考えても答えは出なくて、わかんなくて……でも相談って言っても、誰に言えばいいのかわからなくてさ……」
だから親にも――そもそもの発端を考えれば話す選択肢は絶対に取れないのだが――話していない。かといってクラスメイトに相談できるわけもなく、気が付けば金曜日の授業はすべて終わってしまっていた。
冴子は少しだけ表情を緩める。変わりつつあると言っても、そんなに何もかも、一息に変化するわけではない。
「そりゃそうだよ、黛。あんたはまだ高一だ。急にそんなわけのわからない話されたら、あたしだって混乱してすぐには結論出せないよ」
むしろ、自分に打ち明けてくれてよかったと冴子は続ける。
「黛、あんたはそのことをきちんと話してくれた、あたしは何よりそれがうれしいよ」
片手をゆきのの肩に力強く置き、冴子は一言一言を噛みしめるように口にした。人を信じることは、人を疑うよりも難しい。ときには裏切られ傷つくこともあるだろうし、ゆきのは過去にそういう思いをしたのかもしれない。それでも人を信じて相談しようと思えるようになったことが、冴子はうれしかった。それは担任の教師として、同時に一人の大人としての、冴子の偽らざる本心だった。
「危なくないかどうかは、大人のあたしが確かめようじゃない」
大人ができることは、多少の道案内とつゆ払いだけだ。
言いながら冴子は立ち上がり、進路指導室に置かれた電話の受話器を取った。傍らの分厚いノート(後から聞いたが、それはエルミン生が職場体験学習などでかかわった企業などの情報が載っているノートだという)を捲って目当ての番号を見つけ出すと、プッシュボタンを一つずつ押していく。どこにかけているのだろう、と、ゆきのは不安げな視線だけを向けた。
「あ、お忙しいところ失礼します。私、聖エルミン学園で教師をしております高見と申しますが……」
いつも生徒たちに向けるより少し高いよそいきの声。少しだけ冴子を遠く感じられて、ゆきのは窓辺まで足を向ける。日はとうに落ちていた。御影町は、ほどなくして夜の色に包まれるだろう。今ゆきのが見ている方角が、確かキスメット出版の本社がある珠閒瑠市だ。御影町からは地下鉄と在来線を乗り継いで、一時間まではかからない。ゆきのも何度か、夢崎区の繁華街を訪れたことがある。しかし、キスメット出版のある青葉区には足を踏み入れたことがなく、高架を走る電車の中から野外音楽堂を眺めた程度だ。一体どんな街なのだろう、どんな人が働いているのだろう。そんなことを考えながらゆきのは、受話器を持つ冴子をガラス窓の反射ごしに見つめていた。
「あ、吉川君? ごめんね突然、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
冴子が電話した先は、キスメット出版文芸部に勤める――かつての後輩だった吉川という名の――男性だった。冴子はさすがに用心深く、片桐の名刺に書かれた番号に電話しなかった。まず本件において部外者である彼に、片桐という女性が確かにキスメット出版に在籍しているのかを確認したのだ。
「片桐さんね、同期から聞いて知ってますよ。割と最近入って来た人って。おもしろい人らしいですよ。なんか毎日素っ頓狂なことしてるって」
結論から言えば片桐は確かにキスメット出版に勤めていて、ファッション誌から情報誌までを担当するカメラマンのアシスタントをしていることが確認できた。彼女が社員食堂でちゃんぽんをおかずに唐揚げ定食二人前を平らげたなどというどうでもいいエピソードを得てしまったが、ともかく最終的に目的は達せられた。冴子は後輩の某氏と二言三言近況を語ったあと、片桐の所属する部署まで電話を回してもらった。そうして当の片桐本人に自分の名と立場を明かした上で、撮影の詳細を確認したようだった。
傍らでそれを聞くともなく聞き、真剣な表情の冴子を見るともなく見ているゆきのの心境は落ち着かなかった。結局事態は大きくなっている気がしていたたまれない。親は巻き込まずに済んだけれど、冴子の手を煩わせてしまった。吉川という人まで面倒をかけてしまった。どうしてこんなことになったのか、と、そもそもの原因を考えないわけではなかったが、弟のしでかしたことについて姉の自分が責任を取るのは(ゆきのにとって)なんら道理を外れたことではない。……ただ、そこに自分の興味関心が混ざってしまったので、まったく正当なものだと言うのも憚られる。それでも乗り掛かった舟、ゆきのは動き出した船から港を恨めしく見るような真似はしなかった。
「はい、ええ、ではよろしくお願いいたします。はい……失礼します」
一呼吸おいて戻される受話器。それに合わせてゆきのは大きく息を吐いてしまった。
結局、ゆきのはその仕事を引き受けることになった。掲載誌もブランドも確認したけれどいかがわしい類のものではない。片桐と通話した冴子は「変わった人だけど、社会人としてはごくまともに思える」と評しているので信用はできるのだろう。多分。
「先生、わざわざ電話してくれてありがとう……あたしだけじゃどうしたらいいかわかんなかったよ」
ゆきのは頭を下げた。本心から感謝していた。縁もゆかりもない会社に電話をするというのは、高校一年生のゆきのにはなかなか難しいことだった。それを冴子に肩代わりしてもらったのは少し情けないが、心理的ハードルの一つはクリアできた。一つだけ、だが。
冴子は「いいってことよ」と片手を振る。
「よし! じゃあ明日はあたしもついていくからね!」
「――え⁉」
ゆきのは一瞬、泣き出しそうな顔を懸命にこらえて、あたかも驚いただけだという声を装った。
「いいだろ? 一応監督ってことで。あと、あたしも撮影の現場とかちょっと見てみたいし」
興味があるのは黛だけじゃないぞ、と、白い歯を見せる冴子は、片桐から「もしゆきのさんがご心配ということでしたら、先生もお越しください」とまで言われていたらしい。ああ、それで「いいんですか?」という、やや遠慮がちな相槌がさっき聞き取れたのか……と、ゆきのはどこか上の空で思い出す。
「そういうことなら、あたしは構わないけどさ……」
目を泳がせながらほっとしている自分の虚勢など、冴子は簡単に見抜いているのだろう。行ったこともない撮影スタジオに一人で乗り込む心細さも、見当もつかないモデルの仕事に対する不安も。
「そうかい? じゃあ明日の待ち合わせは――」
全部お見通しの冴子に、どれだけ感謝しているのかを伝えるすべも思いつかない。思いつかないからと何も言わなくていいわけはないのに、そのときのゆきのにできたことは冴子との待ち合わせの日時を決めるくらいだった。
§
そうして翌日。
片桐に指定された撮影スタジオは、珠閒瑠市青葉区の大通から一本入った静かな場所にあった。キスメット出版のある通り沿いは、新聞社を含めた多くのマスコミ関係企業がひしめいている。その関係でこのビルも各階に大小さまざまなスタジオが用意されているのだろう、エレベーターホールも通路も、あわただしくも独特の雰囲気でごった返していた。
その中の一員として、今日の一日を過ごすのだ。なんとなく背筋を伸ばしたゆきのは、緊張した面持ちで指定された7階へと向かったのだが――
「……ゴメンナサイ」
片桐はスタジオの入り口ドア前に立っていた。自分たちを出迎えてくれているのか、そう推測したゆきのたちが声をかけると返って来たのは何故か謝罪の一言。数日前の覇気はどこへやら、しなびた野菜のような表情と姿勢で、まるでその場に崩れ落ちてしまいそうな消沈ぶりだった。
「ど、どうかしたんですか?」
撮影が中止にでもなったのかと聞くと、片桐は首を横に振る。確かにスタジオの中からは人の気配も声もするし、大きな荷物や機材を担いだスタッフも多数出入りしているようなので中止ではないのだろう。
「ほんっとー……に、ごめんなさい!!」
彼らの邪魔にならないよう、通路の行き止まりまで移動すると、片桐は体を90度折り曲げて再び謝罪した。
「――つまり、急病だったモデルが戻って来たから、撮影は本来の人員でやるって……そういうこと?」
片桐のしどろもどろな説明を要約すると、そういうことらしい。ちなみに要約したのは冴子のほうだった。
「はいぃ……」
片桐の声は消え入りそうなほどか細かった。申し訳なさそうに眉を下げているのも、何度も頭を下げているせいで半分ふらついているのも、そうなるのはまあ、わかる。ただ、だからと言ってここまで来たゆきのと冴子が「はいそうですか」と黙って納得できる話でもない。それは片桐も重々承知しているらしく、くたびれた封筒をゆきのに差し出してきた。
「さすがに最初に言ってた額をお支払いするのは無理だけど、交通費と迷惑料と思って、受け取って……くれる、かなあ……?」
弱弱しくなる語尾が、中身は一万円だけど、と、申し訳なさそうに付け加える。
「……一万……」
金額の話だけで言えば、今日の往復交通費と弁償すべきゲームソフトの代金を合わせてもなんとかおつりがくる。だから、本当に金額だけで言えば、ゆきのにはなんの異論もない。そもそも、迷惑料の名目でお金がもらえるとは思ってもいなかったし。
ただ、受け取っていいのだろうか、という躊躇いはあった。
より正確に言うなら、これを受け取ってこのまま帰ってしまうのは、もったいないような気がしたから、ためらった。それは弟のしりぬぐいに起因するお金の話ではなく、ゆきの自身の中に知らぬ間に生まれていた、灯火のようなものが、そうさせたのだろう。
「片桐さん」
「は、はい」
ゆきのの指先が封筒にかかるのを待っていた片桐は、やおら真剣な面持ちで再び声をかけられて更なる緊張に身を浸している。
「迷惑料っていうの、よくわからないけど、もらえるならアタシ、困ってたからすごく助かります。って言っても、働いてもないのにもらっていいのかわかんないですけど……それだけでもお礼を言わなきゃいけないけど、その恩を仇で返すようなこと言って申し訳ないんですけど、お願いがあって」
ゆきのは一つずつ言葉を選んだ。弱みに付け込んでいるようで気が引けたし、非常識なことを言っているのかもしれない、という不安もあった。でも、もし自分が間違っていたら、傍らで見守ってくれている冴子が、きっと正してくれるだろうという信頼もあった。
だから、ゆきのは口にすることができた。
「撮影、見学させてもらえませんか」
「――へ?」
片桐のしゃっくりのような返答が聞こえた瞬間、ゆきのは自分の顔が熱くなるのを感じた。瞬間、何を言っているのかと反論されるのが怖くなって、ゆきのの口からは言葉が溢れて――止まらなかった。
写真に興味を持っていること、カメラマンという職業に関心があること、プロがどんな機材を使っているのか知りたいこと、本物の撮影現場を一度見てみたくて、今日はここまでやってきたこと、建物に入った瞬間から気分が高揚してたまらなかったこと、モデルなんて絶対に柄じゃないとわかっていても、カメラへの興味がそれを凌駕して、ここまで来てしまったこと――。
ゆきのが言いたいことをすべて言い終わったとき、片桐は目も口もぽかんと開けていた。そのしまりのない顔で、頭一つ以上上にあるゆきのの顔を見つめている。片桐が驚いて、そんな顔になっているのはゆきのにもわかった。それ以上に圧倒されていることも理解できた途端、恥ずかしくなって逃げ出したくなる。
それでも意地と虚勢で踏みとどまって、そうして二人して硬直すること十数秒。
「――ちょっと待ってて!」
言い終わらないうちに片桐はゆきのの手に封筒を押し付け、踵を返してスタジオの中へと駆けていった。その背中が見えなくなると、ゆきのは封筒を握ったまま傍らの冴子を振り返る。冴子の表情は、穏やかなものだった。
「先生、アタシ……まずいこと言ってなかった?」
「いーや?」
首を振る冴子が頼もしく笑う。教え子を見守るように緩められた目元に、嘘や慰めの気配はない。ほっとする反面、冴子にも今の自分の言葉を聞かれた事実に思い当って叫びたくなる。今まで誰にも、それこと昨日ようやく冴子に初めて打ち明けた自分の「興味があること」を熱弁したことが気恥ずかしくて。
冴子は眩しそうに目を細めた。情熱、そう言うとゆきのは照れて否定するかもしれないが、心が強く求めるままに動くことは、思春期の特権だ。戻って来た片桐から「二時間くらいでもいいなら!」という条件付きの許可をもらったゆきのの表情を、冴子は眩しそうに眺めていた。
§
あれから数年が経っても、ゆきのはあの日のことを時折思いだす。今日も出先の自動販売機の前で、あのとき片桐が飲んでいた缶コーヒーを見かけて表情を緩めてしまった。
「大人ってね――まあ、私は立派な大人じゃないかもしれないけどさ、まあそれはともかくとして……人は歳を重ねると、自分より年下の人を無条件で助けてあげたくなるものなんだよ」
片桐は、自分のカメラをゆきのに見せながらそう言った。甘い缶コーヒーをちびちび啜りながら、休憩時間のことだった。
ゆきのの手には収まりきれないほど大きな最新型のデジタル一眼レフカメラは、ずっしりと重い。何の気なしに尋ねた値段を知って、ゆきのは手のひらに汗がにじむような気がした。こんなにも高価――だけでなく、商売道具として最も大切なものに違いないのに、どうしてほとんど初対面の高校生に触らせてくれるのか。そう尋ねたゆきのに対する返事だった。
それが一般論として真実なのかどうかは、高校生のゆきのには判断できなかった。けれど片桐の本心だろうということは、伝わった。
それに、同じ夢を見ているんだから、余計に手助けしたくなっちゃって――と、片桐に笑いかけられて、ゆきのは虚を突かれた思いだった。
これは「夢」なのだろうか?
自分の中ではまだ確固たるものとして定まっているわけでもない。具体的なビジョンが思い浮かぶわけでもない。でも、傍から見たら自分は「カメラマンを夢見る高校生」に映っているのだろう。プロのカメラマンである片桐が、「手助け」してくれているのだから。
将来のことなんて、深く考えたこともなかった。毎日なんかどうでもよくて、ただ過ぎ去っていくだけの日々だと思っていた自分にも、「夢」が出来たのかと思うとくすぐったくて、でも、ゆきのは多分、うれしかった。
「でもゆきのちゃんがモデルやってるのも見たいなあ~」
「だからやりませんって」
本気なのかわからない片桐をあしらいながら、ゆきのは渡された缶コーヒーを口にする。驚くほどに甘ったるいそれを、表情に出さずに飲み下すくらいはかろうじてできた。
高校を卒業して数年が経ち、カメラマン見習いとしてキスメット出版に出入りするようになったころ、片桐はすでにそこにはいなかった。片桐との再会を強く望んでいたわけでもなかったのだが、いないと聞くとわずかに寂しい思いを感じた。彼女と関わりのあった人に聞いたところ、片桐の本業は山岳カメラマンで、あの「職場見学」の時期は怪我がもとで一時的にキスメット出版に勤務していたということだった。
ゆきのは、狐につままれたような気分だった。本来出会うこともないような人に出会っていたのは、何かの偶然かいたずらだと思えた。
もしもドラマや映画なら、きっとその出会いはゆきのの人生を変えてしまうものとして用意されているだろう。けれど仮に片桐と出会わなかったとしても、ゆきのはキスメット出版に出入りしていたような気がした。軽んじているわけでもなく、まして否定したいわけでもない。ただ、同じ道を目指した人間同士、どこかでその歩みが交差するのは必定なのではないかと、そう感じただけだった。
貯めたお金で買ったデジタルカメラは、肌身離さず持ち歩いている。あのデジ一には及ばないが、ゆきのの愛すべき相棒だ。まだ納得のいく一枚はなかなか撮れないけれど、思考錯誤の道のりも中々に楽しいものだと感じている。
カメラを持ったゆきのは、カメラを持った片桐とどこかですれ違うこともあるだろう。同じだけど、少しだけ違う道の途中で。
ゆきのは気まぐれに自販機に硬貨を投入し、あのときの缶コーヒーのボタンを押した。普段は決して選ばない、砂糖の入った甘いコーヒー。
案の定、眉をしかめるほどの甘ったるさだった。
けれど片桐も、どこかの山小屋でこの味を懐かしんでいるのかもしれない。そう思うと、存外悪い気分はしなかった。