小説 · 2023年9月21日

南条圭は後ろの席で

「――徳田」
 雑踏の中で名を呼ばれることは、俺にとっては珍しくないことだった。
 俗に言う「顔が広い」というやつらしく、自慢じゃないが俺には声をかけてくる友人やら顔見知りやらがごまんといる。声をかけてくる大半の真意がどんなものかはあまり考えたくはないのだが。
 だから振り返るときに何を考えていたわけでもない。しかし振り返りながらわずかな違和感が浮かび上がる。
 俺はこの声に馴染みがないが、この声をよく知っている。
 二十二時の繁華街。ネオンライトが尾を引くように視界でぶれる。振り返った先の人物がかけている眼鏡も、判然としない色の光を鈍く反射させていた。
「――南条」
 かれこれ五年ぶりだというのに、そこに立っているのが南条圭であることを俺は一瞬で理解した。「1」と刺繍された青いスカーフ、きっちりと後ろに撫でつけられた髪。こんな格好の人間が世の中に二人といてたまるものか。
南条圭は変わっていなかった。中学の頃とまったく同じだった。この男はこのスタイルでこの世に生まれ落ちたのでは――なんて、ばかげた想像をしてしまうほどには。

   §

 俺と南条圭が通っていた中学というのは、幼稚園から大学までいわゆるエスカレーター式に進学が確約されている、世間でいうところの「名門」だった。例外として途中で外部から受験した生徒が入ってきたり、逆に内部進学をせずに受験して出ていく生徒がいたり、あとは「名門」らしからぬ所業をやらかした結果体よく追い出される……そういうレアケースもなくはないが、おおむね互いをよく知り尽くした子供たちがそのまま十年以上を過ごす環境だった。十数年後を見越してつながりを作っておきましょう、みたいな、ガキらしからぬ慣習が蔓延っている魔窟とも言う。
 そこに通っているのは名の知れた家柄か、まあそうでなくてもひとかどの成功をおさめた資産家の子女ばかりだったが、その中でも南条圭は突出していた。南条コンツェルンの看板は、そんじょそこらの家が太刀打ちできるものではない。おまけに南条圭は時期総帥が約束されている一粒種だ。俺みたいな能天気な次男坊は逆立ちしても張り合えない(言うまでもなく、そんな気は起らないのだが)。
 しかしその『稀に見るほど特殊な生まれ』という、本人の自助努力ではどうにもならないもののせいで南条は学生生活に難儀していた。少なくとも俺にはそう見えた。敏い南条は近寄ってくる人間が何を目的にしているのかを概ね見抜いていたのだと思う。
 通っている学校が学校なら、親も親だ。『南条家とお近づきに』と親から言い含められてそうしていた子もいただろうし、小賢しく立ち回ることを覚えた早熟な子供がすり寄っていくパターンも――聞いた話では――あったらしい。そんな毎日は南条じゃなくてもうんざりするし、心労はいかばかりの物かとも思う。
 その惨憺たる環境の中でも純粋に南条と仲良くなろうとした子供もいたかもしれない。けれど小学生なんて年頃は、他人の腹の内なんてものがわかる歳でもないし、いくら南条圭でもそのあたりは年相応だったのだろう。南条の対応は潔いものだった。よく言えば一律公平で、悪く言うなら自分とそれ以外をきっぱりと区別していた。
 結果として、南条は孤立した。と言っても、なんとなく遠巻きにされていた程度のもので、最低限のコミュニケーションはとれていた。たまに口喧嘩というか、南条に言い負かされるやつもいなくはなかったが、それは大抵、くだらない揶揄や嫉妬の軽口といった、相手に非があるものだった。子供ながらに泰然としていた南条は、売られた喧嘩を買うことはあっても淡々と口で言い負かすだけだった。あいつは殴り合いの喧嘩とかしたことあるんだろうか? というか、なりふり構わず掴みかかってくれる相手が、あいつにはいたんだろうか。
 俺の知る限りでは、いなかった。
 俺は南条とは特別仲がよかったわけではない。同じクラスになったことは数回あるが、話したことなんてほとんどない。というか俺に限らず、南条と仲がよかった『ご学友』なんて多分いなかった。少なくとも南条は誰かを『友人』と認めたことはなかっただろうし、我こそは南条の友人なんて言おうものなら当の南条本人がバッサリそれを切り捨てたに違いない。
 頂点に立つ者は孤高であるべき、なんてことを義務教育の時期に考えていたのかは知る由もないけれど、俺の知る南条はいつも一人で、子供に似つかわしくない険しい目をしていた。

 最後に同じクラスになったのは中学三年に進学してからだった。
 その年頃と言えばクラスメイトの青少年諸君は反抗期真っただ中。目に見える問題行動はなかったものの、誰もが家や学校に対してのかわいらしい煩悶を抱えていたように思う。
 あの南条圭もそうだった。あいつが家でどうしているかなんて俺は知らないけど、教室の机についているとき、南条は目に見えてピリピリしていた。ただ、南条は元来機嫌のいいときの方が少ないというかない男なので、大半のクラスメイトの認識は「南条はいつも仏頂面だから」という勘違いで完結していた。南条圭十五歳の不機嫌を察知してビビッていたのは俺くらいだった。徳田と南条。五十音順の出席番号を根拠とする席並びは、俺に背後からの威圧感をプレゼントしてくれた。別に俺に対する悪意ではないが、ないからこそ、なんで南条圭がこうもささくれているのかしばらく俺にはわからなかった。わからないながらも、そこにひりついた意志があることに気づいてしまう自分の性分を誇ればいいのか呪うべきなのか。
 ただ結論から先に言うと、俺の中学生活はまったく、なんらの波乱もなしに平穏無事に終了する。
 反抗期とはいえ南条が暴れることなどただの一度もなかった。まるで思春期のエネルギーを外部に向けるのは馬鹿のやることだとでも言いたげな態度で、ひたすら内面にそれを押し隠していた――ように、俺には見えた。わかるぜ、南条……なんて言葉をかけたことはただの一度もなかったけれど。
 共感を覚えた、というのは、今となってはただの俺の思い込みだろう。
 あのときの俺はこう考えていた。南条が反感を覚えていたのは家でも両親でも学校でもなく、南条という名のシステムだったのではないか、と。そしてさらに言うならば、その南条家を間違いなく構成している自分自身にも、苛立っていたに違いない。
 南条の前にも、俺の前にも、生まれる前から敷かれたレールというやつが出来上がっている。それに従っていれば安泰。それに身を任せていれば何の苦労もない――というと語弊はあるしデメリットという石も線路脇に転がってはいるが、こちとら超重量で走行している軍用車両のようなものなので、ちょっとやそっとの石は木っ端みじんに粉砕できる。ところで俺が軍用列車だとしたら、南条はさしずめお召列車だろうか。不用意に脅かそうものなら、得体の知れぬ力によって障害は排除される。まるで最初からそこには何もなかったみたいに。
 傍から見れば快適至極の旅路だろう。否定する気はない。
 安寧と栄華が約束されていても、その生き方から外れてみたいという衝動は、俺にだって沸き起こったことがある。ただ、このレールを外れてしまうことは「逃げ」ではないのかというプライドが、外れた瞬間に致命的な事故を起こして二度と立ち上がれなくなるのではないかという恐怖が、歳を重ねるにつれ大きくなっていった。親の仕事であちこちに赴いたことがある。大人から頭を下げられたことも何度もある。それでも俺は、俺たちは、この変わらない環境の中でしか育っていない。結局は何も知らない子供でしかないのでは? 校舎三階のベランダで、俺は毎日のようにぼんやりとそんなことを考えていた。考えるばかりで、何一つ行動に移すことはなかった。
南条と違って。

 中三の俺は俺なりに中学生活の締めくくりを謳歌していた。断じて誉め言葉ではない「要領がいい」という評価の通り、なんとなく授業と試験をこなし、なんとなくクラスメイトと戯れ、なんとなく日々を消化していた。世間では高校受験というものが大半の中学生の前に立ちはだかっているらしく、街角には予備校のポスターが貼られ書店には制服姿がひっきりなしに出入りしている。
「まあ俺たちには関係ないけどな」
「だよな。あーあ、よかったよ、受験の心配なんかしなくてすんで」
「けど授業が進むのめっちゃ早ぇのだけはどうにかしてほしいよな」
 ありとあらゆるものに愚痴を漏らす同級生に、表面だけで同調したりはぐらかしたり。俺がのらりくらりと生きている間も、きっと南条は一人だけの脱出計画を練っていた。

 あるとき、友人の一人がこんなことを言い出した。
「南条圭、小四のときに家出したことあるらしいぜ」
 なんでそんな話になったのかは覚えていないが、その話題が友人宅の部屋でのことだったのは記憶にある。
「家出? 南条が?」
 曰く、何を思ってそんなことをしたのかはさっぱりだが、十歳かそこらの南条は級友と連れ立ってちょっとした旅を試みたらしい。電車を乗り継いで郊外の小さな町へ、平日の夕方に、だ。
 南条家じゃなくても、家に無断で小学生がそんなことをすれば当然騒ぎになる。最終的に警察まで動いた結果、彼らは無事にそれぞれの家へと連れ戻された。
「二人とも事件に巻き込まれたわけでもないし、怪我したってこともない。けど――」
 日本で発売されたばかりの、アメリカのロック・バンドの新譜を再生し、ライナーノーツを捲りながら友人は語る。なんでも南条の家は両親が不在だから、保護者代わりの執事がそれはもう、彼の主人である御曹司を激しく叱責したらしい。あの南条が泣き出すほどに。
「ウソだろ?」
「マジだよ」
「見たのかよ」
「見てはねぇけどよ」
 あ、これ内緒な。と、人差し指を立てる仕草ほど無意味なものはない。俺だって南条に直接その真偽を確かめるほど間抜けではないし、事実がどうあれ思春期の少年にとって不名誉な出来事を大っぴらに吹聴して回るほど下品でもないのだから。
「ウソくせぇ」
 あの南条が泣いたという強すぎるインパクトは話の信憑性を根こそぎ損なってしまった。が、どうやらまことしやかにささやかれているらしい噂話の結末はちょっと気になる。
「……それで、どうなったんだよ」
 話半分でも聞こうと思って続きを促すと、友人はカウチソファから跳ね起きて、俺にライナーノーツの冊子を放った。
「おお、それでな、その勢いのまま相手の『ご学友』に頭を下げたんだと。『圭ぼっちゃまがご迷惑をおかけして申し訳ない』とかなんとか」
 南条家のあの執事なら、それもありそうな話だと思った。
 今となれば、南条にそんなことを言ってくれる相手がいたのは彼にとってどれだけ幸いだっただろうか。あるいは、そんな人物がいたからこそ、学友が不要だと思ったのかもしれない……なんてことも、不遜にも考えてしまう。
 ともあれ、それで一件落着、めでたしめでたし――では終わらなかったのが、我らの環境の恐ろしさだった。
「まあ結局、無事に帰って来たわけだしお互い様ってわけで手打ちになったらしいけど、その後ひでぇ噂が流れてさ。家出、いや本当に家出なのかは今となっちゃわからねえけど、とにかく言い出したのは南条らしいんだけどよ、本人がどれだけ言ったところで周りの目ってのは都合のいい話を作っちまうんだよな」
――あの南条の御曹司をたぶらかして警察沙汰なんて。
――成り上がり者がいい気なものだ。
 その“ご学友”の家柄は、『いわゆる名家』からすれば吹いて飛ぶ程度のものだったらしい。口さがない噂はじわじわとその家族を追い詰め、彼らは引っ越し寸前にまで追い込まれたという。
「え? しなかったの? 引っ越し」
 変な話だ。ああいう手合いは嫌がらせを苛烈にこそすれ、手を緩めるなんてことはまずありえない。
「誹謗中傷がぱったり止んだんだよ。噂じゃ南条の家の方で手を回したんだと」
 そんなドラマみたいな展開あるか? 俺は鼻白んだが、そんな噂が出回ったくらいなのだから事実なのだろう。
「ふーん……」
 そんなことをして、南条家に何のメリットがあるのか? 格上の家相手なら下手(したて)に出るのも十分意味のある行為だが今回は完全に逆。大人の事情はほぼ関係ない――とすると。
(なるほどな)
 そうすることで南条圭自身にメリットがあった……というより、南条圭にとってのデメリットを避けるためだったに違いない。
 南条のとこの執事については少し知っている。何度か、彼が南条を送迎する車のドアを開けている光景を見たことがあるが、まさに親代わりの言葉の通りに彼は南条に甲斐甲斐しく目を配っていた。彼は彼の主人が心を痛めぬようにと、その口さがない噂が耳に入らないよう尽力したに違いない。……南条とて暗愚なわけでもないし、うすうす大方の事情に気づいていたんじゃないかとは思うが。
「息苦しいよなーほんと」
 そう零す友人は、スピーカーから聞こえるギターの音に合わせてかき鳴らすように右手を揺らしている。全然あっていない。音楽家である彼の両親の苦労が偲ばれる。
 しかしその感想には同意する。俺たちの境遇はどうにもならない。だからといって、どうにかしてやろうという気概もない。なんだかんだでいわゆる「恵まれた」環境に甘えることを良しとしている。そういう自分の性根もひっくるめて、息苦しい。
 もしかしたら家出をした南条は、子供心に立ち向かってみたかったのかもしれない。真実はどうあれ自分が誘って家出をしたのだと言って回りたかったのかもしれない。が、今の話が本当なら、彼の大立ち回りの結果は完全な徒労に過ぎない。
 あの南条の御曹司でさえ、立ち回り方をわきまえなければならない。本当に息苦しい。いや、息苦しいというか――
「shove it up your ass(クソくらえ)、だな」
 歌詞カードに載っていた、『お上品』なフレーズについ気持ちをゆだねてしまいたくなる。言った後に情けなかった。結局俺は、この鬱屈を言い表すのさえ、他人の言葉を借りなければならなかったのだから。

    §

 あのときに聴いていた曲が流れ終わると、BGMは唐突に日本のアイドルグループの曲に変わった。過去に飛んでいた俺の意識が戻ってくるのと同じように。
 しかし――俺はなんでこんなところにいるんだろう?
「何を飲む?」
「え? ああ、ビールで」
 南条は軽くうなずくと、店員にビール二つをオーダーする。南条もビールを飲むのか、という感慨――感慨と言っていいのかわからないが、とにかく妙な気分だった。
 お互い二十歳は過ぎているので、夜半の居酒屋で酒を飲んでもなんら問題のない状況ではある。問題なのはこのシチュエーションのほうだ。なんで俺は大衆居酒屋の傾いたテーブルを挟み南条圭と差し向っているのか。南条と酒を飲むという状況がまず謎なのだが、南条、こんな店でいいの? こんな店呼ばわりするのは店に対して心苦しいけど、だってここ一品二百円からだよ?
「南条はもっとこう、リッツとかシェラトンとか……」
 ああいう星の数競ってる系のホテルの、メニューに値段が載ってないレストランに予約なしで入っていって、何も言わなくても一番上座のテーブルに案内されるタイプの人間なのでは? それがこんな場末の居酒屋? 南条、こんな店でいいの? 俺が女の子だったらガッカリして帰っちゃうどころかのれんくぐってないよマジで。
 南条はおしぼりのビニールを器用に端から破り、両手を拭きながら「ふむ」とうなずく。
「リッツか。そうだな、最近はあまり通っていない。大学からは少しあるしな」
 南条がいう「大学」がオックスフォードだというのは俺たちの間ではよく知られている。そこから近いリッツ……それリッツ・ロンドンのこと?
 俺はおしぼりの袋をバリバリ引き裂きながら嘆息した。やっぱりこいつは、常識をわきまえた顔をしたつもりでも根っこから規格外なのだ。
「王室御用達(ロイヤル・ワラント)に頻繁に通う大学生がいてたまるかよ」
 南条はおしぼりを軽くたたみ、テーブルの脇に安置する。よかった、顔を拭くなんてオッサンくさいことしなくて。そうだとしたら俺の南条像が音を立てて砕けていたところだ。現在進行形でヒビは入ってるけど。
「けどなあ、南条はこういうとこ、連れてこられても嫌がりそうだと思ってた」
 南条は笑い、油でべたついたメニューに手を伸ばす。
「知った場所にしか出入りしないのは退屈だからな」
「――まあ……それはわからんでもないけどさぁ」
 一瞬答えが遅れたのは、過去を思い出したからだった。
あのころの南条は、そして幼いころに家出をしたときの南条も、どこか別の場所に行きたかったのかもしれないと感じていたから。
「ああ、もしかして、徳田は嫌だったか?」
 頬杖をついた俺を誤解したのか、南条はいらぬ気を回してくる。南条の気遣いなんて、字面だけで胸やけしそうだとも言う。
「そうじゃねぇよ。俺だってここ何回か来たことあるし」
 言いながら、自己嫌悪で項垂れたくなる。
 ここが俺と南条の違い、というか、俺の性根のさもしさといったところだった。
 結局俺はエスカレーターを脱して、とある国立大へと進学したのだが、環境が変われば顔ぶれも変わる。誰かは親から買い与えられたマンションで一人暮らしをする一方で、毎日のようにアルバイトで学費を稼がなければならない学生もいる。俺は前者にカテゴライズされる側で、後者から悪意を向けられるのを恐れていた。こういう場所に出入りするのが苦痛にならなくなったのは、二回生に進級してからだった。
 南条だったら、俺が怯えている他人の視線などこれっぽっちも気にしないのだろう。置かれている環境で人を判断することもしないし、俺のしている歩み寄りなんて本質的な解決ではないと切り捨てそうだ。
 俺の予想する南条は、世間の評判に左右されることもなく、他人の評価と自己認識は全く別なのだと正面切って断言するに違いない。
「ほう? 何が美味い?」
 おまけにこの態度だ。南条は思ったこと、感じたことに素直だ。自分の言動が及ぼす影響を考えていないというか、その結果何が起ころうと逃げずに受け止める気概があるのだ。
 こうして自分のつまらない内面を言語化できるほどには成長した俺は、南条をうらやめばいいのか、ねためばいいのか。
「……地鶏の炭火焼」
「ではそれにしよう。あとは……」
 メニューの上に視線を滑らせる南条はやけに生き生きとしていたので、俺の毒気がたちまち抜かれてしまう。いや、もとより南条に対して俺は、別段悪感情など抱いてはいなかった。
「南条、サラダは大根サラダにしてくれよ」
「了解した」
 たのしそうな南条を見ていると、背中がむずがゆくなってくる。
 二十歳になった南条と、酒を酌み交わすとは思いもしなかった。俺は兄貴と二人兄弟だからわからねぇけど、弟がいたらこんな感じなんだろうか――なんてことを考えるのは、実は二度目だった。安っぽい照明の橙色が、南条の顔を照らしている。光景まで五年前と変わらない。あのときの南条は、ずいぶん思いつめた顔をしていたけど。

    §

 放課後の教室に、南条は一人で残っていた。たまたま担任から面倒な仕事を押し付けられて教室に鞄を取りに戻った俺は、そのなんとも形容しがたい状況に遭遇してしまったのだった。
 南条が、一人で居残っている。しかも自分の席に座ってはいるが何かをしているようにも見えない。強いて言うなら何かを深く考え込んでいるようだ。
「……」
 俺は入口の引き戸に手をかけたものの、一瞬そのまま動けなかった。なんとなくそれは見てはいけないもので、立ち去るべきかとも思えたからだ。しかし鞄を置いて帰宅はできない。このままちょっと様子をうかがおうかと思った。が、そもそも俺の足音などすでに南条の耳に入っているに違いない。下手にコソコソするほうが怪しい(し、南条の機嫌を損ねるのはおっかない)。
 その思考時間、多分一秒未満。俺は努めて自然な風を装い、ドアを開けて南条に手を挙げてみせた。
「よお、まだ残ってたのか」
 ――しばらく、思い返すたびに手近な何かを殴りたくなるほど馬鹿丸出しの一言だった。残ってたのか、なんて、そんなの見ればわかるだろう……と、南条は小馬鹿にしたような態度で俺を一蹴――しなかった。
「……徳田」
 あっけにとられたような顔で、南条は俺の名前を呼んだ。俺の名前(名字だけでも)知ってたのか、という謎の感動と見たこともない南条の顔のせいで俺は軽くパニックを起こす寸前。その動揺のせいで、「お――おう、南条」なんて意味不明な返事をしてしまう。間抜け極まりない応酬としか言い表せない。ただ名前を呼びあっただけの俺と南条の頭上を、同じく間の抜けたチャイムが通り過ぎていく。漫画だったらカラスの鳴き声でもしているだろう場面を構成するのがあの南条。やっぱり脳が理解を拒否したがる光景だった。あまりにもいたたまれず、俺は踵を返そうとする。いや無言で去るのは気まずい。だからって「邪魔したな」なんてのは調子はずれだろう。そもそも俺は何をしにここへ? ついに記憶まであやふやになってきた俺を正気に戻したのはやはり南条だった。
「徳田は、」
 椅子が引きずられる音がした。南条が少しだけ前のめりになっている。
「内部進学、か?」
「え? ――あ、ああ、そうだけど……?」
 要領を得ない質問が南条の口から出てきた。そう感じられた。
 うちは一応外部への進学も認められてはいるものの、高校進学時にそうする生徒は、大学進学時のそれよりも少ない。よって受験勉強にいそしむ生徒はうちのクラスでもごくわずか、片手にも満たない。俺を含む大半の生徒は安穏とした中学生活の最後を謳歌している。南条が心から楽しんで謳歌しているかはさておき、立場としては同じだと思っていたのだが、どうにも思いつめたような顔から察するに、俺の認識は間違っているらしい。
「そうか」
 南条は姿勢を戻す。「1」の刺繍が入ったスカーフに深い色の影が落ちていた。南条が顔をうつむけたせいだった。うつむいてはいるが、南条の顔はいつも通りの仏頂面で、結局何を考えているのかはわからずじまいだ。
「……」
 俺はそのとき、人生最大の難問に遭遇したと思った。
『もしかして南条、外部進学考えてるの?』
 こう質問していいのだろうか。なんとなく秘密主義的なニオイを感じ取っていたし、他人を拒みがちな南条にずけずけと立ち入ったことを聞くのもはばかられた。加えて言うなら、この質問は南条の中でかなり大きな問題になっているようだし、そもそもそういうことを気づかれたこと自体、彼のプライドを知らずに傷つけているのではないかとも思えた。虎の尾を踏まぬように立ち回ろうとしているのか、それとも踏んでしまった足を上げようとしているのか。俺は自分が置かれている状況をまったく把握できていなかった。
だから、そんな行動に出た理由は覚えていないし、わからない。
「受験、すんの?」
 ごく自然な風を装って南条の前の椅子を引き、そこにまたがるように座る。そうすることが正解だったのかは、判断がつきかねた。

 想像だけは、いつだって可能だ。
 例の家出事件のころの南条を俺は知らない。もしかしたら、昔は同年代の子供たちと仲良くしようと思っていたのかもしれない。それがあんなことになってしまった。南条が孤立していたのは、彼の性格のためもあっただろうが、子供心に自分の立ち位置が認識している以上の影響を持っていると痛感したあの事件が原因だったのではないだろうか。
 俺はそんなことを考えながら、外部受験するならどこがいい、ここがいい、なんて話をひたすら続けた。学習塾に通う他校の友人から聞いた話を機械のように繰り返しているだけだった。だけどそんなつまらない羅列でも、南条は真面目な顔で、それこそ一言も挟まずに聞いてくれた――と信じたいが、実際はまくしたてる俺に口を挟めず辟易していたかもしれない。
 結局のところ俺にはそうすることしか思いつかなかったし、できなかった。要領よく生きていると言われるくせに、南条に対してどんな態度をとればいいのかは皆目見当もつかなかった。
 でも、どうすればよかったのかなんて、何が正解だったかなんて、たとえ三十年経っても俺にはわからないだろう。南条だって、どうして俺に「外部進学か」尋ねたのかわからないのかもしれない。こうして数年の時を経て再会した今でも。

    §

 ピークタイムを迎えた居酒屋は大繁盛の一言に尽きた。店内を走り回るスタッフには、済んだ皿を下げる暇もない。テーブルの上には大皿の残骸が三枚と、空になったジョッキが四つ。いつもより酔いの回りが早い俺と、これっぽっちも顔色を変えない南条圭がそれを間に挟んでいた。
「ある意味、想像どおりだよ」
 脈絡もない俺の言葉に、南条は眉を上げるだけだった。
「南条は酒、強いんだな。寄ってるのかわかんないし、少なくとも顔には出てない。あー……あれいつだったっけ、卒業式? 同窓会? なんかそのときにみんなで言ってたんだよ、南条元気かなーって。あいつ酒めっちゃ強そうだよなって」
 酩酊状態。口が止まらない。半面、南条は平静そのままだった。片手で顎を支えるようにして、椅子に深く崩れそうな俺を見ている。
 その口元が、ふっと緩んだ。
「そうか。皆、俺のことを覚えていてくれるのか」
 その一言に込められた感情も、その一言が俺にもたらした感慨も、到底一言では言い表せそうにない。
「お前……そういう言い草……言い草ってのも変だな……ああ、うん、水臭い! 水臭いぞ南条!」
「人を指さすな」
 口ぶりに反して南条は笑っている。あの頃ついに拝むことのできなかった、屈託ない笑顔だった。
「――俺は生まれて初めて他人の笑顔で酔いが醒めたかもしれない」
「ははは、それは錯覚だろう」
 何がおかしいのか。南条はグラスの中身を飲み下す。その仕草は――場末の居酒屋でも決して立ち居振る舞いをおろそかにはすまいという意志ゆえか――妙に様になっていた。
(ああ、そうか)
 数年来の疑問が霧消するきっかけは、些細なことなのかもしれない。
 こんな在り方だから、外部進学をしても南条は変わらなかったのだろうか。いや、逆に、あの魔窟を脱出して何か違うものに触れて、揺らぐことのない自分を確立したのかもしれない。
 結局南条がどんな風にこれまでを過ごしてきたのか俺は知らない。でも、知ろうとは思わなかった。
 なぜなら――それを知らなくても南条は俺に声をかけてくれたし、俺は南条の前で管を巻いて笑われている。
 俺は南条と、こういうふうに話してみたかったのかもしれない。一方的にまくし立てるだけじゃなく、語り合える何かがあればと思っていたのかもしれない。
(南条圭と、友達だったらよかったのに)
 あの黄昏の教室で考えていたことは、結局はそんなことだったのだ。今更そんな、小学生でも口にしないような願望を持っていたことに気づくと途端に恥ずかしさで悶絶しそうになる。
 懸命に平静を装っていること、南条は気づいているかもしれない。それでも南条は何も言わなかった。
「うん、まあしかし、酔いが醒めたと言うのを信じて一つ」
 南条は言葉を区切る。ためらっているように視線をさまよわせ、一つ息を吐いた。
「俺は礼を言いたかった。自己満足でしかないとしても」
「……礼って、なんの?」
 南条に感謝される心当たりなど一つもなかった。なかったのでそう答えることしかできなかったが、南条は予想していたと言わんばかりに頷いている。
「徳田にとっては、あれは本当に些細なことだったんだろう。だが……あのとき背を押されたと思っているから俺は進むべきところへ進めたのだろうし、今の俺がある。そういう気がしている」
「あのとき?」
 背中を押した覚えなどこれっぽっちもないが、「あのとき」に心当たりは――一つだけある。俺と南条の、おそらくたった一つの接点。あの放課後の、会話とすら呼べないようなモノ。
「相談に乗ってくれただろう。進学先」
「相談って、」
 南条は、大真面目だった。
 俺の個人的な印象として、そして多分第三者から見ても、あれはただ俺が一方的にまくしたてていただけなのだが。
 それでも南条が本心から礼を言いたいと思ってそうしてくれているのなら、俺はそれを、受け止めなければならないのだろう。いやそれ、めちゃくちゃ気恥ずかしいのだが。
「ありがとう、感謝している」
「……おう」
 思わず口元を隠してしまう。なんだか、ゲームのレベルアップ音でも流れたような気がした。南条圭に礼を言われたことがうれしかったわけではなくて、南条が、南条のほうこそが、そんな些細なことを忘れずにいてくれたのがうれしかった。
 氷が溶けたウーロンハイに、見てられない顔の俺が映っている。
 ……ところで、南条はどうして東京(ここ)にいたのだろう? まさか俺に礼を言うために探し出したわけではないと信じたいが、相手は南条家なのでやりかねない。問いただしてみてもいいのかもしれないが、やめた。
 今ここに俺と南条がいる理由は、偶然でもなんでも、別にいいのだから。
「いやでも、俺はちょっと意外だったよ。あんとき色々言ったけど、南条は結局親父さんに反対されるんじゃないかって思ってた」
 照れを誤魔化すための話題は、南条には拒まれなかった。
「それは俺も予想していたんだが――」
 その重厚さを鑑みあれやこれやと武装して立ち向かった扉は、拍子抜けするほどに軽かったらしい。南条父は、「聖エルミン学園を受験したい」という息子の希望に反対しなかった。それどころか、「エルミンならば」と、どちらかと言えば賛成だったようにも思う……というのが南条の見立てだった、らしい。
「留学を見据えてならばエルミンの方が実績やツテはある。それも一因だったのだろう」
 南条は呆れ混じりに鼻を鳴らした。あのころの、反感たっぷりの不機嫌さから角が取れて丸くなったようだ。ところで口ぶりからすると他にも理由があるようだが、俺は訊くことをしなかった。どうやらその理由は、南条にとって気分のいいものではないようだし。
 その一方で、聖エルミン学園に進学したことは南条にとって大変満足のいく結果をもたらしたらしい。
「結局、父の思惑通りに生きているのかもしれないが……しかし俺は紛れもなく、俺の意志で聖エルミン学園へ進学することを決めた。そこで得た経験も出会いも、今の俺にはなくてはならないものだ」
 満ち足りた顔を見れば、仔細を聞かずとも推測できる。
「ふーん……」
 南条が見てきたもの、経験とか、出会いとか、それはどんなものだったのだろう。さっき南条が見せたような、目を輝かせたくなる出来事ばかりではなかったのかもしれない。俺の知っているよりずっと大人びた南条は、当たり前に辛酸や挫折を経験しているのだと思えた。それを乗り越えることができたのは、あの執事の存在が一番に大きいのだろう。けれど、彼と同じくらいに南条圭を案じ、支えてくれる『友人』が今の南条にはいるのだと――俺は南条の交友関係など知りもしないくせに――確信できた。
「……南条はさ、殴り合いの喧嘩とかしたことある?」
 いつか抱いた疑問を口に出してみる。南条は一瞬、虚をつかれたように口をつぐみ、
「――ある」
 柔らかく息を吐いた。
「高校で?」
「そうだ」
 少し眉を上げて笑う南条にとっても、それは悪くない思い出らしい。
 俺はつかみかかれるほど南条と親しくはない。親しくなろうと踏み出すことはなかった。それは事実だ。でも、俺の知らない誰かが南条に真正面から向き合ってくれたことを、本心から祝福したい。
 彼の友人の一人として。
「よかった。南条も喧嘩くらいはしたんだな」
 ぽつりとこぼれてしまった一言に、南条が呆れている。酔いが醒めたというのは錯覚だったな、と。
 そうして少しだけ遠くを見るような目をした。
「徳田は昔からそうだった。お前が一番、周りを見て、気を配っていたな」
「……いきなり何?」
 今日はとことん、おかしなことばかり起こる。南条に出くわし、居酒屋で席を囲み、予想もしなかった謝辞を述べられたかと思ったら今度は俺の人物評まで始める気か?
「誰にでもいい顔をする八方美人だと感じていたが、言葉にするよりもそれは難しい。本質的なところを言えば、それは他人に分け隔てなく接するということだ。事の良しあしはさておき、俺には到底真似できん。
だから、あの日教室を訪れたのが、徳田でよかったとは思っている」
 誉めているとは思えない言葉からそれは始まり、締めくくられるときも南条の真意はよくわからなかった。わからなかったのだが、それを聞き出そうものなら明快かつ端的な回答が南条の口から飛び出すに違いない。そうなってしまったら俺はたぶん、含羞をごまかし逃避を計る目的でキャパオーバーの酒を呷ってしまいそうだ。ただでさえ「あの頃の南条が結構的確に俺のことを観察していた」という無性に尻こそばゆい事実を突きつけられて着心地が悪いというのに。
 だから南条が何を言いたかったのかは、あやふやなままにしておこうと思った。
「まあ……アレが何かの役に立ってたなら俺としても」
 うれしいのか、安堵したのか、誇らしいのか。
 判断がつきかねて宙に浮いた言葉尻は、最後まで曖昧なままだった。
 同じように――俺は、南条との距離はこのくらいがちょうどいい気がした。密に連絡をとるわけでもなし、互いのすべてを開示しあうでもなし。ただ時々思い出したように会って話せればそれでいい。
 あのころ後ろの席で拗ねていた南条圭は、今、俺と向かい合って笑っている。
 悪くない未来じゃないか。

  §

 それからしばらくして、世間はちょっとだけ騒がしくなった。
 五年前、当時の文部大臣だった与党議員が複数の学校法人からの収賄容疑で立件された。先だっての須藤元外相による十年来の汚職に続くスキャンダルで、与党政権は青色吐息、反面野党勢力は色めき立って責任追及に精を出している。たまたまつけたテレビのニュースでは、父が報道陣の前で渋い顔をしていた。官房長官として頭が痛いだろうし、秘書をやっている兄も忙殺されているに違いない。が、俺は気楽な次男坊なので、せいぜいほとぼりが冷めるまでは、実家に近寄らないでおこうと決心するだけなのだった。
「当時収賄事件にかかわっていた学校法人は八法人に及び、その中には――」
 ニュースキャスターが読み上げる学校名には、懐かしの母校の名もあった。
「……ああ、もしかしたら」
 南条の親父さんは、その時からそれを知っていたのかもしれない。南条の家は政界にも顔が利くので、どこからかその情報を入手したのだろう。くだらない悪事は遅かれ早かれ明るみに出るのだから、息子をそれから遠ざけようとしたのも当然だ。だから南条の外部進学は反対されなかったし――
「俺まで外部進学させられたわけか」
 俺の父も多分、当時それを知っていて急な進路変更を言い渡したに違いない。悪夢のような受験スケジュールは俺の中で今もトラウマなのだが、当時知る由もなかったその原因が明らかになるとさすがに腹が立ってくる。が、あのとき対処しておけば今責任追及の矢面に立たずに済んだだろうにと思えば、少しだけ気分が晴れそうだった。ザマ見ろ。
「……」
 しばらくベッドに寝そべっていたが、やはり腹に据えかねる。そうだ、この鬱憤を共有できるやつに電話しよう。
 そう考えて跳ね起きた瞬間、携帯電話が鳴った。表示された番号は、連絡帳の中で一番新しい。
 あいつも同じことを考えていたようだ。こみあげてくる笑いをこらえながら、通話ボタンに指を伸ばす。少し背筋が伸びる気がした。
「――もしもし? 南条?」

(絵文字・感想をいただけると大変はげみになります:WAVEBOX