小説 · 2023年9月21日

さよならリグレット/魂のゆくえ

さよならリグレット

 彼女がそんな目をするとは思わなかった。
 カルタ・イシューという少女はそのプライドに裏打ちされたかのように、何事も卒なくこなす。それも自分よりも数段秀でているものだから、ガエリオは幼馴染の彼女が自分に「万年みそっかす」などという屈辱的な呼び名をつけても、どこか諦めて受け入れてしまうようなところを自覚していた。それはとても悔しいことに違いはないのだが、カルタはその万年みそっかすを見捨てることは絶対になかったし、もっと幼いころにはなにかと世話をしてくれていた……ような記憶がある。
〝まるで姉と弟のようだ〟と、イシュー家のメイドに言われたときは、本当は少し嬉しかった。
 そう思えるくらいには、ガエリオはカルタを頼りにしていたし、誇りにも思っていたのだと思う。
 だからそんなカルタが、ある日突然現れたマクギリスという少年に羨望めいたまなざしを向けるとは思わなかった。何よりも誰よりも自分自身を信じ、誇りに思っている彼女が突然現れた名も知らぬ少年に一目置くなんてことはガエリオには想像もできないことだった。
 決して自分には向けられなかった目が、マクギリスを見つめている。
ガエリオはそれを悔しく思っただろうか。幸か不幸かそれは――覚えていない。
 なぜならば、子供らしい親睦を深めるその過程で、ガエリオもまたマクギリスを素直に「彼は優れた人物なのだ」と認めるようになったのだから。
どう贔屓目に見てもマクギリスはあらゆる点でカルタよりも抜きん出ていた。抜きん出るようになった、というのが正しいかもしれない。ファリドの家に引き取られた彼がいろいろな意味で変わっていく様は、家族ではなく友人でしかないガエリオもカルタも圧倒した。
 あたたかいものに囲まれ、誰からも惜しみない愛を与えられ育ったガエリオが見たこともないような、やせて薄汚れた少年――初めてガエリオの目に映ったマクギリスは、冷たい氷のようだった。
 怖かったのかと聞かれると、多分違うと答えるだろう。ただ幼心にも「きっと触れてはいけないこと」がマクギリスと、彼を取り巻くものの周りにあることは察した。もっとも、その事情は口さがないメイドを通じてすぐに耳に入ってきたのだが。
「そんなことはマクギリスと関係ないわ。自分の力でどうにもならないことの責任を、本人に求めるのは卑怯よ」
 マクギリスと親しく付き合うことを咎められても、カルタとガエリオは一度だって引き下がらなかった。
「そうだよね、カルタはちゃんと言葉にできて、すごいや」
 カルタがまっすぐに力強くそう言ってくれるのが心強かったし、自分が内心で強く思ってはいても言葉として表せなかった思いを代わりに言葉にしてもらえたように思えて、とても嬉しかった。
「当然でしょう!」
 ふん、と鼻を鳴らして澄ました顔をしてみせても頬の辺りがわずかに赤い。それを悪く言うつもりはないし純粋に褒めたくてそう思うのだが、きっと「かわいい」なんて言ったらカルタは余計にへそを曲げるだろう。だから、ガエリオは何も言わなかった。
 もしもあの頃、今よりもずっと素直に思ったまま振る舞えた歳のころにそう言えたら、何か変わっていただろうか。空しい自問はとうに凍らせ、胸の奥底に沈めている。カルタから羨望の目で見られていたマクギリスを、本当は〝羨ましい〟と思っていたことすらも。

   §

 ファリドの名を与えられた少年は、しかしそれでも周囲からの奇異の目を向けられるばかりだった。
「ねえ、嫌じゃないの?」
 いつもの木陰で本を読んでいるマクギリスの隣に腰を下ろし、ガエリオは目的語のない問いを投げた。
 イシュー家のそれよりはまだ穏やかな方だが、ボードウィン家の使用人もマクギリスに対して悪感情を隠さない。
 あからさまな蔑視はガエリオにも不愉快なものに思えたし、マクギリスはきっと傷ついているに違いない。自分が咎めたところでそれがなくなる保証はないが、もしもマクギリスが嫌がっているなら自分が戦おう。カルタがその小さな体で、そうしているように。
 そう考えた上でストレートに尋ねた。尋ねる前に行動しなかったのは、マクギリスのプライドを慮ったつもりだった。後になって思い返せば、それはずいぶん傲慢な考えだった。
 マクギリスは口を開きかけて、止める。
「きっとこれは、」
 ふわり、と金色の一房が揺れた。恐ろしいほどに澄み切った青い目が見つめていた本が静かに閉じられたためか、あるいは初夏の風のせいか。
「本能的な怖れは……人の心というのは、誰が何と言っても変わらないと思うから」
「……どういう意味?」
 あまりに漠然とした返答だったのでガエリオは間の抜けた声でそう聞き返すことしかできなかった。
 少年は穏やかに笑う。
「嫌だ、やめてくれって言っても、誰かの考えを変えるのはとても難しいことじゃないかな。それが人間の、生理的な嫌悪感や恐怖から来ているものなら、なおさら」
 ガエリオには、まだよくわからない。
「……そうかなあ」
「きっとそうさ」
 かすかに笑うマクギリスは、ガエリオが理解できていないことを見透かしているのだろう。少しだけ突き放されたような寂しさで、ガエリオは眉尻を下げた。
 にわかに吹き荒れた風が梢を揺らす。常緑樹の葉がいくつかふるい落とされ、ガエリオの手の甲にも一葉が舞い落ちた。そのみずみずしい葉脈ごしにガエリオは太陽を見上げた。雲一つない空はひどく眩しかった。
「でも、黙ったままって悔しくないの?」
「え?」
 珍しく見開かれたマクギリスの目はガラス球のようだと思った。どこまでも見通せそうなのに、本性がわからない。
 ガエリオは、何かまずいことを言ったような、居心地の悪さに肩をすくめた。
「悔しくないなら、いいんだけど。ごめん」
 きっと立ち入ったことを聞いてしまったのだろう。そもそもが失敗だったことにようやく気付いたバツの悪さを、マクギリスの小さな笑いがかき消した。
「屈辱を感じないと言ったら、多分、嘘になる」
 でも、という反駁は、力強く少年の耳を打った。
「いつか――見返してやるさ」
 冬でもないのに、確かな怖気が総身を慄かせる。
 その横顔はすがすがしいものなどではなかった。蒼穹でも見上げていれば別だっただろうが、マクギリスは今しがた舞い落ちてきた緑の葉を、未だ骨ばったままの手のひらで握り潰そうとしていた。
 ガエリオはそれを、止められなかった。くしゃりと小さな音を立ててつぶされたものは彼には見えない。
 それでも、何故だろうか。握りこまれた拳が、痩せ細ったそれだというのにとても力強く見えた。きっと彼は言葉の通りに何かを成し遂げるのだろう。

 彼は強い。そう感じてどこか安心してしまったガエリオはある意味では正しく、ある意味では間違っていた。

    §

 月日が流れ使用人が入れ替わったためか、あるいは傍目にも明らかなほどに聡明さを兼ね備えたマクギリスの才覚に口出しをする余地を見失ったのか、ともかくかつてのような奇異な眼差しも言葉も投げかけられることがなくなった頃。
「アルミリアと?」
 まだ十にもなっていない妹の名前を頓狂に口走ってしまったガエリオは、涼しい顔でカップを口に運ぶマクギリスを凝視した。せざるをえなかった。それはおそらく、同じテーブルを囲んでいたカルタも同じだっただろう。
「ああ、まだ婚約だがな」
 曰く、決めたのは両家の当主同士だと言う。空いた口が塞がらない。確かに身内の贔屓目を抜きにしてもアルミリアは愛らしい淑女(になる予定)だし、マクギリスだっていまや社交界でも引く手あまたの美丈夫かつ相も変らぬ卓抜ぶりを誇る男だが、それにしたって年齢差だとか、いやそれ以前にアルミリアの意思……よりも先に、
「お、お前はそれでいいのか?」
 混乱しながらガエリオは「親友」にそう問いかける。ゆったりと笑うマクギリスは、あの頃と変わらぬ、本心の見抜けない顔で語った。
「親友の妹御だ、異存はない」
 そうじゃないだろう……と、ガエリオは空いた口が塞がらないままに言葉を失ってしまう。正直自分が妹のような歳の女性、というよりは少女を婚約者として宛がわれてはと考えるとぞっとしない。上手く働かない頭でアルミリアとマクギリスの歳の差を計算し、その差を自分の中の良識が容認しうるか、世間体は、前例は……などという一人審議を繰り広げるガエリオにマクギリスは冗談めかしてこう言う。
「ガエリオ、お前は私が義理の弟になるのが不満か?」
「おと――」
 言われてみれば確かにそうなる。妹の夫となる男は、ガエリオの義理の弟に該当する。新たな衝撃を投げられたガエリオは、しかしこうも考える。
 マクギリスとて、アルミリアにとっては幼いころから親しくしていた相手、兄のようなものでは? そんな相手が突然、伴侶になるなどと――
 ガエリオは、そこでようやく彼なりに得心した。自分やアルミリアには伴侶を選ぶ自由など赦されてはいない。であれば、顔も名前も知らぬ相手よりは、兄の友人として長年の知己であるマクギリスをあてがわれる方がよっぽど幸福なのかもしれない。たとえそれが、一歩間違えば親子のような歳の差であったとしても。
 審議結果、許容。ただし条件付き。一旦上げかけた腰をもう一度ソファに勢いよく沈めたガエリオは、呻くような声でこう言うしかなかった。
「……アルミリアを悲しませるなよ」
「無論だ」
 即座に返ってきた言葉すら、なんのことはないような温度を持っている。まあ確かにマクギリスは信用に足る男だと思うし、それがわかっているから父だって縁談を認めたのだろうし、いやそれにしたってやはり年齢差は……と、あれこれ考え込むガエリオの隣、カルタは静かにカップを置いた。
「おめでとうマクギリス、今度……お祝いをしなくてはね」
 そう言うカルタの声が僅かに震えていた。まさか先を越されてショックなのだろうか? と、ガエリオは軽い気持ちでその顔を覗き込もうとする。しかし少女の頃を過ぎたカルタは巧みに本心を隠しており、ガエリオにはもはや何の感情も読み取れない。
 ただ、今のカルタの目にはあのときの輝きはなかった。幼少のころにマクギリスを見つめていた、羨望の光であふれた瞳はそこにない。
「ありがとう、カルタ」
 マクギリスもまた、穏やかに笑う。
 ガエリオは――ガエリオだけは、笑うことができなかった。
 あのときと同じ、温度を伴わない怖気を振り払えなかった。
 どこからどう見ても静かなテーブルだというのになぜこうも居心地が悪いのだろう。何かがこの優しいすべてを粉々に砕いてしまう、そういう恐怖感に見舞われる。
 得体の知れないものがぬるりと体を撫でたような気がした。それは青い目をしている、まるで、悪魔と形容されるような――
 マクギリスの目は、もはやあの頃のように冷たいそれではない。だからと言って「人並みに」あたたかな温度を持っているとも思えない。恐ろしかった。そして、親友を恐ろしいなどと形容する自分を恥じ、思わず目を逸らしてしまう。
 奇妙な沈黙に耐えかねたのだろう、薄く微笑んだまま、カルタは席を立った。
「悪いけれど、今日はそろそろ失礼するわ」
 我に返ったガエリオが、名残惜しげに「やけに早いな」と、言っても「そうね」という、要領を得ない言葉しか降ってこない。
「それなら見送――」
「何言ってるのよ、ホストがいなくてはしょうがないでしょう?」
 席を立ったカルタを追うようにガエリオも腰を上げると、相変わらず姉のようにたしなめられる。自分のことはいいから、メイドも来させなくていい。そう言ってやけに人払いをしたがるカルタが退室した後マクギリスは口元だけで静かにほほ笑むだけだった。
 時計の秒針が規則正しく音を紡いでいる。それは不気味に近づいてくる誰か――いや、何かの足音のようだった。

    §

 その日の夜更け、ガエリオの姿は自邸のダンスホールにあった。彼のほかに人影はない。最小限の照明が照らしているのは静かに鈍く光るピアノの黒だけ。蓋を開け、立ったままに鍵盤を一つ叩く。ずんと心が沈むような音色が洞窟のようにこだました。
 奏でられた低音に言い知れぬ不快感を覚えるのは、こどものころに無理矢理にピアノだのヴァイオリンだのを習わされていたせいだろうか――違う。
夕食時にマクギリスとアルミリアの婚約の話がいつのまにか自分の縁談の話になっていたので気が滅入ってそう感じるのだろうか――それも、違う。
〝カルタも縁談を断っていると言うのだから困ったものだ〟
 一人息子からは縁談なんて当分結構だと突っぱねられ、父はそう言って盛大にため息をついた。父もまた、カルタとガエリオを姉弟くらいに考えているのかもしれない。聞き分けのない子らに手を焼くような口ぶりを笑うガエリオに、父は呆れたようにぼやく。
〝そうやっていつまでも笑っていられるものか。お前はともかくカルタはいつまで統合艦隊に……もうこどものように遊んでいられる立場でもあるまい〟
 そこからは食前酒に酔いでもしたのか、「二人していつもマクギリスの後を追い掛け回して云々」と管を巻き始めるものだからたまったものではない。適当に相槌を打ちながら話を聞き流していたガエリオは、なんとなしに幼少期のことを思い出し始めていた。

 鍵盤を叩けば葬送の鐘のような音が響く。三人で競い合うように練習した協奏曲のピアノを誰よりも上手く弾いたのもマクギリスだった。両手で繰り返される和音に覆いかぶさるような旋律の運指を、ガエリオはもはや思い出せない。
 ただ一つだけ。今になって理解できたことを噛みしめていた。
〝ありがとう、カルタ〟
 丁寧すぎるほどに謝辞を述べたマクギリスは何もかも知っていたのだろう。自分に向けられる、カルタのまなざしにこめられた熱のなんたるかすらも。カルタとてマクギリスが何も気づいていないと思っていたはずはない。それでも二人共にこのままの関係でいた理由はおそらく、否確実に、「本心を打ち明けたところでどうにもならないから」に他あるまい。
 イシュー家の一人娘であるカルタが、ファリド家を継ぐべきマクギリスと添い遂げることなど叶いはしない。彼の本心は知る由もないが、仮に二人が想いを通じあわせていたとしても、あのイズナリオにはいくらマクギリスとて逆らうこともできはしまい。
 だから彼女はいつまでも統合艦隊に居座っているのだろうか。そこにいればマクギリスと――職務上であっても――接触が望めるかもしれない。上手くいけばマクギリスに認めてもらえるだけの功績を残せるかもしれない。それが彼女の願う、あるいは得うる幸福なのだろう。
 もちろんこれはガエリオの勝手な想像で、カルタはもっと崇高な考えで職務をまっとうしようとしているのかもしれない。いや、そうに違いない。二十年近く彼女を見つめていたガエリオにとって、カルタ・イシューがそんな甘っちょろい感傷で自身の進退を定めるとは思えなかったのだ。そんな、そこらのかしましい女のような――
「――……」
 嗚咽のようなため息がこぼれる。
 高潔な性格もきっぱりとした物言いも、面倒見のよさという優しさも、すべてを好ましく思っていた。彼女のすべてを敬愛していた。誇りだった。それはこれからも決して変わることはない。マクギリスを愛した彼女を、己の誇りと家のためにそれを生涯口にしないことを誓っただろう彼女を、ガエリオはこれからも愛するのだろう。思い通りになどならないと知ったその上でそう決めたカルタだから愛したのだろう。
 誰が悪いわけでもない。何かが違っていたら、そのような逃避を思うこともない。マクギリスとて、この関係が崩れぬようにそ知らぬふりをしているのならば、それならば自分もまた道化を演じよう。何も気づかずに親友二人の笑顔だけを願っていよう。それが多分、自分に許された、自分の願う幸福に違いない。

 そうだろう、マクギリス? 応えてくれ、俺は、俺たちは間違っていたのか?

    §

「そうだ、ガエリオ。私への憎しみを、怒りをぶつけてくるといい」

 何度も繰り返される打撃のせいだろうか。だんだんと霞に侵食されていくように頭の中がぼんやりとしていく。混乱していた。こんな状態でマクギリスを討ち斃せる可能性などほとんどない、それは自分がよく理解している。それはガエリオを安心させ、また絶望させた。
 殺せない口惜しさと、殺さなくてもよいという安堵のためにガエリオの視界がさらに歪んでいく。
 死ぬのだろうか、そうに違いない。だとしたらさっきからフラッシュバックする光景は走馬灯というやつなのかもしれない。思い出はうわべだけでも穏やかであたたかだった。陽だまりの中で笑う三人はああも優しいのに、覆いかぶさるのはマクギリスの奏でる激情の奔流のようなピアノの音だった。腹が立つほどに巧みな演奏をガエリオは今ですら精緻に思い出すことができる。思えばあれはマクギリスがこれまでで唯一、感情というものを見せた場面だったのかもしれない。

「友情、愛情、信頼、そんな生ぬるい感情は、私には残念ながら届かない」

 その通りなのだろう。かつての彼が嘯いたように、人の内心を変えてしまうなどというのは、そうそう容易にできるものでもあるまい。ましてこれまでの人生のよりどころが憎悪だけだったような男に対しては。
 まぶたの裏が痛んだ。指先は怒りに震え、感情のままに叫びを上げてしまう。
 カルタ、お前は、恨むだろうか。もしも俺が、お前が愛した男をこの手にかけたなら、お前は俺を恨むのだろうか。たとえ恨まなかったとしても俺は、お前への懺悔を繰り返すに違いない。愛した女を救えなかったことも、親友の裏切りに微塵も気づかなかったことも、何も知らずに死んだお前にどう詫びればいいのかわからない。ああ、しかし、幸福。幸福と呼べるのかもしれない。これでよかったのだろうか、お前が何も知らず、マクギリスの名を呼びながら俺の目の前で、俺の手の届かぬところで優しく死んでいったのは、幸福だったのだろうか。誇り高いお前が、愛するマクギリスの素顔を知ったのなら。考えるだけでこの喉を掻き毟りたくなる。嘘だ、嘘だ。幸福などではない。お前に何も知らせなかったことがマクギリスなりの思いやりだったのだとしたら、それはあまりにも愚弄した答えじゃないか。それでもお前はマクギリスを許すだろうか。

 きっと、許すのだろう。

 俺は、俺は――

 ガエリオは何度も絶叫した。こどものようだった。いや、こどもの頃ですら、こんなにも涙を溢れさせたことはあるまい。堰を切ったように留まることを知らないそれを拭う暇すらない。かろうじて身に染み付いた動作だけでキマリスを操るが、動揺し感情に支配されたガエリオが、そうなることを見越したのだろうが、冷たく逆鱗に触れていく悪魔――マクギリスに勝てようはずもなかった。
 こんな最期があってたまるか。そう願ったところで何が変わるわけでもない。

「怒りの中で生きてきた、私には」

 振り上げられたブレードがまぶしい。光に焼かれながらガエリオは理解した。
 あれが自分を殺すのだ。

――これは罰だろうか。
 カルタならきっとマクギリスの氷の瞳を溶かしてくれる。そう信じて何もしなかった罰なのだろうか。
 あのときカルタが流しただろう涙から目を背け、誇りを傷つけたくはないという欺罔で、傷つくことを恐れた自分への罰なのだろうか。
 悔恨を背負って生きることを放棄し、何もかもを捨ててカルタのところへ、などという甘さに酔いしれた自分への罰、そうだと言うのか。

 それでも自分は、どこかでマクギリスを完全には憎み切れないのかもしれない。
 あいつが何を考えていたのか、ずっと長い間共にいたのに、結局わからなかった。
 わかって『やれなかった』自分とカルタにも一因がある、なんて言うのは、思い上がりが過ぎるだろうか。
 そうではなく、ただ甘かったのだろう。
 今際の際にすら、誰を憎むこともしたくないらしいのだから。

 ガエリオは、自分が嗤ったような気配を感じた。
 もう二度と「みそっかす」と笑ってはくれないカルタの顔を思い出していた。

 まったく、何もかも――


魂のゆくえ

 白い光がまぶしい。閉じた瞼を物ともせずに入り込んでくるあたたかな侵略者に、ガエリオは身を捩って抗った。何よりもやわらかいものに包み込まれて、ここから抜け出したくなどなくなる。なのに甲高い声の誰かが頭の上でわめきたてていて、ああ、自分はこれを嫌いなはずがないのに、耳をふさいでしまいたくなる。もう少しだけこうしていたい。ガエリオは寝返りを打って意思表示してみせる。
「いい加減になさいな!」
 と、甲高い声の主が一際大きく叫んだ、かと思いきや。
「う――わあああああ⁉」
 ガエリオの体は勢いよく一回転し、そのショックで完全に目が覚めた。
「ようやく起きたようね」
「いって……なにすんだよ!」
 目の前に仁王立ちする幼馴染のカルタが、中等部の真っ白いセーラー服で腕を組んでいる。髪も似たような色なら肌色も白いので、ガエリオは眩しさに目を細めた。なんであんな格好してるんだろう、と、考えこんでしまったのは、あとから思えば寝ぼけていたのかもしれない。ガエリオはベッドの上でパジャマのまま中途半端に起き上がり、カルタが持つ薄手の夏蒲団を見るともなしに見た。どうやら自分はそれにくるまっていたのに、テーブルクロス引きのように彼女に引っぺがされたらしい。
 それは理解できたが、置かれた状況はいまひとつ要領を得ない。
 大体、ここはどこだろう?
「何してるの、は、こっちの台詞よ。今何時だと思って?」
 憤然としたカルタの台詞にガエリオは怪訝な顔をする。
「何時って……」
 時計を探して壁のほうを見上げると、なるほどカルタが憤るのも無理はない。三十分の寝坊だった。
「うわあっ⁉」
 ベッドから転げ落ちそうな勢いで跳ね起きたガエリオを見て、カルタは額に手を当てながらため息を吐く。
「わかったならさっさと着替えて降りてらっしゃいよ」
 くるりと背を向けるカルタのスカートの裾が揺れる。空のような水色に、ガエリオは少しどきりとした。

   §

 一分足らずで制服に着替えたガエリオがダイニングへ駆け降りると、父親が車を出させようかと声をかけてくる。ちょっと迷ったけれど走れば十分間に合う。朝食抜きは少々辛いが。父は息子の答えを聞くとそうかと苦笑し、再び新聞に目を落とした。玄関からはカルタの声が聞こえる。待たせると後が怖い。
「行ってきます!」
「気をつけてね」
 穏やかな母の声を背中に聞きながら、なにか不思議な心地がした。母に似た、けれどもっと幼い少女に何度もああ言われて見送られていた気がする。そんな存在に心当たりはないのに。
「……気のせいかな」
「何か言った?」
 怪訝な顔のカルタになんでもないと首を振り、ガエリオは門扉を開けた。夏の空を背後に、カルタの白と水色のセーラー服がよく映えている。

    §

 初夏の朝はまだ少し肌寒く、半袖のシャツの腕をさすりながらガエリオは歩いた。カルタも似たような格好だと言うのに、寒くはないらしくツンとすました顔をしている。
(化粧しないほうがいいよなあ)
 当たり前だがカルタの顔には化粧などされていない。どころか、ガエリオは生まれてこのかたカルタが化粧をしたところなんて見たこともない。なんでそんなことを考え付いたのか自分でも理解に苦しむのだが、あの化粧を施したカルタの顔は、あまり好みとは思えなかった。
(あの?)
 何かを思い出しそうな気がして、ガエリオは首を傾げる。ううん、と唸ってしまったせいか、カルタが怪訝な顔を向けてきた。
「さっきから何よ、人の顔じろじろ見て」
 まさか化粧がどうこうと言うわけにもいかず、ガエリオは適当に言葉を濁した。
「……なんでカルタがうちに来てたのかと思って」
「そろそろ寝坊するころだと思ったからよ」
「……」
 物心つくころにはすでに姉のような顔をしていたカルタに言い当てられてガエリオは何も言えない。思い返せば昔からああしてたたき起こされることはあったし、両親までカルタを頼っているフシがあるものだからぐうの音も出ない。おかげでカルタは勝手知ったるボードウィン家にわがもの顔で出入りするわ、それだけならまだしもガエリオの部屋にまでお構いなしに入って来るわで散々だ。
「いい加減俺の部屋に勝手に入るのやめろよ」
「何よ今更」
 一応は抗議してみるのだが、カルタのこの、自分の行動に非などあろうはずがないという態度には、切れ長の目から放たれる鋭い視線と相まって気圧されてしまう。
 うっと言葉に詰まった自分を鼓舞してガエリオはもう一度言い返す。
「だ、だってもう俺たち、中等部になったんだし」
「なにそれ? 安心しなさいよ、私にとってあんたはずーーーーーーーーっとみそっかすなんだから」
「そっちこそなんだよそれ……俺がカルタの部屋に入ったらめちゃくちゃ怒るじゃないか」
「当たり前でしょ。レディとみそっかすの部屋を一緒にしないで頂戴」
「……」
 この傍若無人のダブルスタンダートぶりには呆れしかでてこないし、これ以上言い返したところでカルタが聞き入れるわけもないのでガエリオは何も言い返さなかった。カルタに何か言って聞かせることができる「彼」は、やっぱり無二の存在なんじゃないだろうか。
「おはよう」
 いつものバス停にさしかかると、その庇の影で二人を待っている少年が読んでいた本から顔を上げる。細く美しい金色の髪が揺れる隙間からは、穏やかな海の浅瀬のような瞳が覗いていた。
「おはようマクギリス」
「お、おはよう」
 先ほどまで傲岸不遜だった少女はしおらしい態度で頬を桃色に染めている。またこれだ。ガエリオは呆れて目を細めながら会話するマクギリスとカルタを見つめた。何を読んでいたのかと聞かれたマクギリスは歳相応と言い難い難解な本を、丁寧に噛み砕いて説明している。彼は頭がいいし、やさしい。カルタもまた賢いので、噛み砕かれたとはいえ簡単ではない本の内容を的確に理解し、懸命に話をつなげようとしている。
 バレバレなんだよなあ、と、ガエリオはこみ上げる笑いを懸命にこらえた。
 カルタからさんざ朴念仁だのみそっかすだの言われている自分だってカルタの恋心に気づいているのだから、聡いマクギリスはとうの昔に気づいているのではないだろうか。それこそ彼ら一家が近所に引っ越してきて、三人が共に行動をするようになったそのときに。
「相変わらず難しい本ばかり読んでるのね」
「そうかな、おもしろいと思うとどんどんページが進んで」
「あっ、その、別に、おかしいって言ってるんじゃないの、ただその、あなたってすごいのね、って、思って」
「わかってるよカルタ」
 やさしく小さく笑うマクギリス、耳まで赤くするカルタ。ガエリオは前を歩く二人を見ているとなんとなくもやっとしてしまう。惚れた腫れたはよくわからないけれど、もしカルタとマクギリスがいわゆる「彼氏彼女」になったら、それって自分の入る余地なんてなくなってしまうのでは? と、不安になる。それはなんだかイヤだな、と、思うけれど、まるでカルタの幸せをねたんでいるようで、というか、カルタが自分のいないところで笑顔になると思うとなんだか無性に悔しくなる。
 なんで?
 考えても、十三歳のガエリオにはよくはわからなかったが、いつの間にか難しい顔をしていたのだろう。マクギリスが振り返って尋ねてくる。
「どうしたのガエリオ、変な顔して」
「……べつに変な顔なんてしてない」
 八つ当たりもいいところだがうっかりマクギリスの心配をつっぱねて気まずくなってしまう。ガエリオが思わず頼りない顔をしてしまうと、マクギリスに倣って振り返っていたカルタが手を叩いた。
「あ、忘れてたわ」
 と、何かを思い出したのだろう、通学鞄とは別のトートバッグから何かの包みを取り出す。
「寝坊して食べる暇がないだろうからって、おばさまがサンドウィッチにしてくださったわよ」
 私も手伝ったけどね、と、恩を売ることを忘れないカルタがガエリオにそれを手渡す。軽くトーストされたパンに、朝食だったと思しきポテトサラダとベーコンエッグが挟まった二つのサンドウィッチを見ると、忘れていた空腹感が呼び戻される。
「うわー! ありがとカルタ!」
 ガエリオはすぐさま中身にかぶりついた。
「別に私が作ったわけじゃ……」
 呆れ混じりにそれを眺めていたカルタに、マクギリスが微笑みながらこう言う。
「でもカルタも手伝ったんでしょう」
「そ、それはそうだけど……」
 先ほどの恩着せがましい一言を拾われたカルタが苦しそうにうめく。マクギリスはガエリオがポテトサラダのサンドをほおばっているのを目を細めて眺め、「おいしそうだね」と笑う。
「おいしいけどやんないよ」
 なんとなしに危機感めいたものを感じてガエリオは大口を開けて残りのサンドを中に収めようとした。それを見てマクギリスはさらにおかしそうな声を上げる。大人びてはいるものの、年相応の少年らしい笑みだった。
「さすがに今のガエリオからはとらないよ」
「そうよ、マクギリスはあんたみたいに意地汚くないんだから」
 ひどい言われようである。が、自分が意地汚いかはさておき、ガエリオは一瞬言葉に詰まってしまう。
 マクギリスは何かを積極的にほしがったりしない人間だと、常日頃からガエリオは感じていた。ほしいものがあっても、遠慮しているのか口にはしたがらないように見える。
「今度、わ、私のでよかったら、作ってあげてもよくてよ」
 だからこんな風にカルタが言い出すのは、マクギリスにとってもすごくいいことなのだと思う。自分への態度と比べものにならないほどその口調が健気でいじらしいのはひとまず置いておいて。
 マクギリスは嬉しそうに笑い、カルタは申し出を突っぱねられなくてほっとしている。そんな光景を見ながら、ガエリオはふと考えた。
 もし自分に向けられるカルタの態度がこんなふうだったら?
「……」
 ぞっとしない。
 ガエリオが好ましく思うカルタはいつでも堂々としていて、強く賢く、自身に満ち溢れている。多分マクギリスを前にしたような態度ばかりを向けられていたら正直カルタを好きにはならなかっただろう。
「ん?」
 好き? 誰が誰を?
 不意に去来した大いなる疑問に首を傾げたガエリオを、友人たちは不思議そうに見つめている。
「どうしたのよ」
「変な顔になってるよ」
 まっすぐに自分を見つめる二つの顔は純粋に自分を心配してくれているのに、なぜかどうしようもない、焦りのような不安に見舞われる。
 そうじゃない、自分が何かとても、大事なことを忘れているような気がするのだ。その正体が何かなんてこれっぽっちもわからないのに。
 白い光、砂塵の中で泣いている自分。そんな幻覚がガエリオを俯かせる。
 それでも――
「ガエリオ?」
 心配そうな友人の声が、暗い光景をかき消してくれる。案じてくれる仲間は、手の届く場所にいる。
「ちょっと、熱でもあるんじゃな、」
 カルタの言葉を遮って、ガエリオは友人たちの手をとった。右手でマクギリスの左手を、左手でカルタの右手をとって、そのまま手をつないで歩き出す。
「いきなり何するのよ!」
 呆気にとられたマクギリスとわめくカルタを引きずってガエリオはのしのしと歩を進めた。夢に見た不安の影も、内心の気がかりもすべて、何もかもを振り払うように力強く歩いていく。大切な友人なのだ。バラバラになんかなりたくない、そんなことは絶対にさせない。
「早くしないと遅刻するだろ!」
 照れ隠しのような大声が空に放り投げられる。受け取り手もいないと思われたそれは、けれどしっかりと受け止められた。
「自分が寝坊したくせに!」
「置いてなんかいかないよ」
 一人は怒って、一人は笑っている。
 ここに、自分を拒む者はいない。
 鼻の奥がつんとした。プールでおぼれたときのようだと思った。マクギリスはガエリオの手を握り返す。水底から引き上げるように力強く腕を引く。それがあまりにも嬉しくて、待ち望んでいたものが何か思い出せそうな気がして、ガエリオは怒ったように顔をゆがめた。
「――ぜったいだぞ!」
「はぁ? あんた何ムキになってんのよ……」
 呆れ交じりのカルタもたしなめるように手を引いてくれる。その手に触れている二つのぬくもりは心地よく、まるで嘘か夢のようだとすら思えた。
 もしかしたら自分は夢を見ているのかもしれない。自分の体はどこかの荒野に打ち捨てられて、魂だけが甘い虚構にとらわれているのかもしれない。
 たとえそうだとしても、一体誰がこの手ににじむ熱が幻だと言えるのだろう。
 許されたい。これを真実だと思い込む愚かさを許されたい。
 蝉が鳴いている。わずかばかりの夏の隙間で何かに抗うように。尽きるさだめの命を嗤うことなどもう誰もしなかった。

 ひとかたまりになった三つの足音が坂道を駆け上る。固く泡立ったような白い雲の眩しさがまっすぐに目を貫いてくる。
 それでも見上げることをやめられないほどに夏の空は美しく――少年たちはどこまでも無垢だった。

(絵文字・感想をいただけると大変はげみになります:WAVEBOX